片柴村水死十五人墓 | |||||||||||||||||||||
所在地 | 三朝町片柴地内(案内図はこちら) | ||||||||||||||||||||
増野の旧往来の道端 | |||||||||||||||||||||
片柴村水死人十五人為菩提 宝暦十二年(1762)七月十五日 この日の大水で増野に山崩れがあって、野見家など数戸の人家がつぶれ人々が圧死したとい うのである。水に溺れたわけではないが、大洪水に関係があるので水死としているのであろう。 二百年も経た石碑なので、文字がようやく判読できる程度である。 |
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また、因伯年表によった『倉吉市誌』から転載すると 『七月十五日、夜大風雨、翌朝出水、但し昼前には引く。この日伯州洪水、倉吉新御倉つぶ れ、その後淵の如くなる。郡郷の間、人畜の漂没せることおびただし。この日は二百十日より 三日前なりという。当年は享保酉年洪水の三十三年目となるが故、水災あるべしと俗間こぞ って評しけるが月も日も違わずしてこの水難ありしという。』と載せてある。この年は壬午の年 となるので午の水といわれている。 三朝町誌 (三朝町誌編纂委員会) |
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