幸太郎地蔵 | |||||||||||||||||||
所在地 | 三朝町大瀬(案内図はこちら) | ||||||||||||||||||
大瀬の地蔵土手といっても、知る人はほとんどなくなった。明治時代には唐櫨土手と呼ばれ ていたが、大正時代に桜を植樹してから桜土手、三朝の入湯客や三徳詣での人々に親しま れていた。 その土手の入口の県道べりに石のお地蔵様がささやかな祠の中に納まっている。物語りは、 この石地蔵にまつわる哀話である。 豊かな実りの稲穂の上に、さわやかな風が吹き始めた初秋のある日のこと、風雨に荒れ狂 って氾濫した三朝川は、せっかく汗と膏で築き上げていた土手を突き破って、豊沃な大瀬の 田んぼを、一瞬の中に土砂で埋め尽くしてしまった。 これは、今年に限ったことではなかった。何年目かには必ず受ける痛手であり、時には二年 も続けて、三朝川の氾濫に襲われることすらあった。そうした度毎に、村役人は村人を集めて 評議をしたが、落ちつくところ、頑丈な土手造りということ以外には打つ手はなかった。 その後防護手段である頑丈な土手さえも、何年目かの洪水には、あっけなく押し流されて 1年間の辛苦の結晶である稲が、見事といってよいほど洗い去られてしまうのが常であった。 |
|||||||||||||||||||
ここは庄屋の宅である。集まった百姓たちは、知恵も根も尽き果てたように押し黙って、み んな下を向いていた。「世間の噂によれば、土手や石垣を築く時に人柱を立てると、その人間 の執念で、石垣も土手も崩れぬようになるという話だが、大瀬の土手には、そういうわけにも ゆかまいしのう。」 こういって肩を落として、ひとり言のように言い終わった年老いた庄屋の顔にも憔悴の色が はっきり浮かんでいた。名案が出なくても、工事は始めねばならなかった。奉行の督促に対し ても、そのまま捨てて置くわけにはいかないし、来年の米作のためにも、早速工事に取り掛か ることに村の衆議は一決した。 工事の合間には、いろいろな世話話に花を咲かせたが、その世話話の中には、どこの国の 何川の堤防は、洪水の度に流されてばかりいたのに、人柱を立ててからは一度も堤防が切れ なくなったとか人々の口に交わされていた。 |
|||||||||||||||||||
村人たちのこうした虚実を取り混ぜた話を聞いている中年の実直な百姓があった。彼の長男は 16才になっても足腰の立たない、いわゆる足萎えであった。その百姓の心の中に、ちらりと恐 ろしく悲しい考えが陰を落として通り過ぎて行った。白昼、村人の眼前で我が子を生き埋めの 残酷さにさらすにたえないと思ったあの百姓は、土手の底にこっそりと彫り込んでいた陥し穴 の中にある夜のこと、足萎えの少年幸太郎を陥し込み人柱として埋めてしまった。 「幸太郎が人柱になっているぞ。幸太郎親子に対しても粗末な仕事をしては申し訳ない」こん な合い言葉で話し合いながら、村の土手造りは一日一日と進んで行った。従来になかったほど 念入りに丈夫な土手が完成したのは、出水の翌年の苗代田の作業に取りかかろうとする春の始め のことであった。 土手が見事に完成した日、奉行や村役人が発起して、地底に眠った幸太郎の霊を弔うために、 石地蔵を建てて賑やかな法要が行われた。土手に建てられたこの地蔵を里人たちは幸太郎地蔵 と呼ぶようになった。 続三朝町誌 (三朝町誌編纂委員会) |
|||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||
閉じる |