倭文(しとり)神社(じんじゃ)(湯梨浜町(ゆりはまちょう)
所在地 東伯郡湯梨浜町宮内754(案内図はこちら
通称 伯耆一ノ宮
祭神 建葉槌命(主神)、下照姫命外五柱
由緒 伯耆国の一ノ宮として御冠山の中腹に位置し、広く安産の神として信仰されている。
 創立年代は不明であるが、出雲大社御祭神大国主命の娘下照姫命が出雲から当地に移住され
安産の普及に努力された。創立当時、当地方の主産業が倭文(しずおり)の織物であったので
倭文部の祖神建葉槌命に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、その後倭文の
織物が姿を消し、安産信仰だけが残り、安産守護として崇敬され、参道横には安産岩も伝えられ
ている。平安時代延喜式神名帳(西暦九二二年)には当神社の名が見え、神階は度々昇進し、天
慶三年(西暦九四〇年)には従三位から正三位に進んでいる。その後正一位に昇進されたとみえ、
「正一位伯州一ノ宮大明神」と刻した勅額と称する古額が現存している。
 住古の社殿広大で、戦国の御朱印地を有したと伝えられ、鎌倉時代の東郷荘絵図には東郷湖
付近に転々と一ノ宮領の文字が見えている。然し戦国時代荒廃、天文二十三年(西暦一五五四年)
尼子晴久社殿を造営神領七十石寄進。後神領中絶したが、元亀元年(西暦一五七〇年)羽衣石
城主南条宗勝これを復旧した。天正年間羽柴秀吉を迎え討つべく、吉川元春(毛利の武将)橋津
の馬の山に在陣するや、当神も兵営とせんとしたが、元春の子元長は霊夢を感じて兵を馬の山に
引いている。その後御冠に入った秀吉との対陣は有名である。羽衣石城の南条元続当社の荒廃を
嘆き、神領を収め、新地を寄せ代官をして社領の監査を厳ならしめたという。徳川時代は池田藩
主の祈願所となり、天正年間の戦乱で中絶した神輿渡御を延享二年(西暦一七四五年)再興し、
藩老和田氏から、境内警備のため鉄砲六人を附されている。明治以降県社であったが、昭和十四
年國幣小社となった。
                            (現地看板から転記)
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