治水対策
江の川は、昭和28(1953)年から直轄事業として改修を進めてきたが、昭和47(1972)年7月豪雨災害により、全地域にわたって壊滅的な打撃を被った。
被災後は災害復旧や河川改修を着実に実施するとともに、平成28年2月に策定した「江の川水系河川整備計画(国管理区間)」に基づき、治水安全度の向上を目指して無堤箇所の堤防整備や河道掘削等を実施している。
しかし、未だに多くの箇所が改修途上、または未改修の状況にあり、三次河川国道事務所では、上下流の改修バランスを考慮しながら、鋭意事業展開を図っている。
事業の概要
三次市十日市地区は、江の川(本川)、馬洗川、西城川が合流し、通称「三川合流部」といわれる三次市街地のほぼ中心地に位置している。この地区には以下のような地形的特徴がある。
馬洗川が大きく湾曲している
馬洗川にほぼ同規模の支川である西城川が直角に近い角度で合流している
市街地を控えており人家が連坦している
また、この地区は古くから洪水による災害に見舞われており、特に昭和47年7月豪雨災害(1972)では、この地区において2ヵ所が破堤し、市街地の大部分が浸水するという大きな被害を被った。
この災害を受け、災害復旧とともに河川改修を促進し、堤防・護岸を概成させるとともに、堤防を洪水が越水した場合に備え、堤防補強対策として、「アーマーレビー」を試験的に施工した。
事業の経緯
平成2年度より事業着手となり、計画検討を行い、施工性・経済性を考慮し、遮水シート・ふとんかごを堤体内に取り入れ、また景観面を考慮して、裏法は張芝による緑化を基本構造とすることとした。
これに基づき、初年度、馬洗川左岸(0K800)において築堤、天端舗装工(L=60m)を行った。
翌平成3年度から9年度にかけて、前年度に引き続き、順次施工区間を馬洗川上下流方向に伸延させ、平成9年度に一連区間約800 m(0K200~1K000)の完成となった。
アーマーレビー
“アーマーレビー”の“アーマー(armour)”は英語で鎧兜や防護具・外装の意で、“レビー (levee)”は同じく英語で堤防を意味する。
アーマーレビーは堤防の川側の法面の他、天端・川裏側の法面にも補強対策を施し、堤防の機能強化を図るものであり、技術的に確立されたものではないが、再度災害防止を目指して試験的に施工したものである。
天端はアスファルト舗装により、雨水の浸透防止と越水による堤体の侵食を防止する。川裏側法面には可撓性に富む連節ブロックを、法尻部にはふとんかご・吸出防止材をそれぞれ施工し、越水による洗掘防止を図るとともに、雨水による表面浸食防止と、環境面への配慮から張芝工を施工している。
アーマーレビー施工状況
事業の概要
三次市粟屋町は、江の川上流部(141k付近、左岸)に位置し、三次市街地に近接している。
粟屋町中ノ村地区は、江の川本川と国道54号に挟まれた延長約1.0㎞、最大幅約0.13㎞の細長い狭隘な地形であり、面積約9.5haで戸数約70の集落である。地区内には住居の他、公共施設として小学校、郵便局、公民館等があり、工場施設としては、コンクリートブロック工場、中国電力所轄の変電所があり、国道沿いには飲食店(ドライブイン)等が点在していた。
昭和47年(1972)出水当時は無堤で、改修工事は未着手あった。このため、浸水面積7.0ha、浸水家屋64戸の被害記録となり、地区の大半の家屋は床上浸水の被害を受けている。
この地区の改修方法については、狭隘部であるという地形的特徴や社会的特徴を踏まえ検討を加えた。この結果、堤防とした場合は移転家屋が多くなる(約50戸:全体の約70%)こと、高堤防となるため住環境の悪化が懸念され、集落コミュニティの破壊が予測されること、さらに、経済的な観点から、盛土方式の改修を採用した。
盛土による改修方法は、盛土高を堤内地を含めて計画高水位(H.W.L)までとし、川表肩にパラペット(余裕高1.5m)を設けるものとした。この方法は、後の嵩上げ方式による改修工事の先駆け的なものとなり、作木村港地区河川改修工事(水防災対策特定河川事業)に引き継がれた。
事業の経緯
昭和52年度に事業説明、設計協議を行うとともに、用地取得交渉を開始した。用地取得状況に応じて補償盛土工事を開始し、昭和53年度に水路付け替え工事とともに、護岸工事を開始した。
昭和54年度から56年度にかけて粟屋第1堤防、第2堤防の築堤を施工した。昭和56年度より、粟屋小学校の移転交渉を開始し、翌 57年度交渉終了とともに粟屋第3堤防を築堤し、護岸整備完了をもって昭和57年度に一連の事業が完了となった。
事業の概要
作木村伊賀和志地区は、江の川中流部 (110k700付近、右岸)に位置し、江の川本川が西流から北流にほぼ直角に転ずる位置にあたる。左岸には山が迫るため、江の川を流れる洪水流の本流に加え、岩盤にあたった反転流が直撃し、昭和47年7月豪雨災害時(1972)には、無堤状況であったことも加え、ほぼ全地域が冠水する被害を受けた。
この地区の改修方法については、水衝部であることに加え、JR三江線が地域の中央を通過していることもあり、高堤防の築堤と護岸整備で対応するものとした。なお、改修工事にあわせて当地区の圃場整備も行われた。
事業の経緯
昭和54年度より事業着手となり、用地取得交渉を開始し、昭和59年度までに補償交渉は完了した。同年度より改修工事に着手し、平成5年度、6年度に排水樋門設置工事を行い、平成16年度に完成した。
事業の概要
高田郡甲田町甲立地区は江の川上流部(158 K500付近、左岸)にあたり、支川本村川との合流点近傍である。上流部162K付近で狭窄部となった江の川本川が、161k付近から川幅を広げながら北流に転じ、159K付近からほぼ直角に東流となり、本村川と合流する地形である。このため、昭和47年7月豪雨災害(1972)では、本村川合流点より下流部分の大半の水田が冠水し、本村川沿川も内水が発生し、この付近全体で、浸水面積143.5ha、浸水家屋 206戸の被害が発生した。
この地区の改修は、江の川本川(左岸)の築堤・護岸整備と、本村川河口部の流出断面拡大を図るものである。
事業の経緯
昭和59年度より事業着手となり、事業説明、設計協議を行うとともに、測量を行い、昭和63年度より用地取得に入った。
堤防等の改修により、この地区を通過する県道世羅甲田線に架かる五龍橋の架け替えが必要となり、「五龍橋改築事業」として、広島県との合併事業を実施することとした。同様に、江の川本川に加え、本村川の流出断面不足を補うために引堤、嵩上げによる改修も行うこととし、広島県本村川小規模改修事業と関連して行われた。
一方、本村川と本川合流部においては、平成2年度より「ふるさとの川整備事業」が展開され、「紅葉と梨の香る里・リバーパーク五龍」として整備される構想がある。(後述「ふるさとの川整備事業」参照)
昭和63年(1988)10月に事業計画説明、11 月に現地説明を行い、用地交渉に入ったが、関係35名、家屋移転33戸の交渉が全て成立したのは平成7年度であった。交渉終了とともに築堤・護岸整備を順次行い、五龍橋の架け替えが完了したのは平成10年(1998)7月であり、完成式が7月30日に親柱の序幕とともに行われた。その後も改修事業を継続し、築堤・護岸整備は平成13年度に完了した。
五龍橋改築事業
概要
五龍橋は、広島県の史跡である五龍城址の眼下に位置し、江の川本川左岸へ支川本村川が流入する地点(江の川158K500付近)に架かる県道世羅甲田線の主要橋梁である。以前は松江と広島を結ぶ出雲街道の橋で、明治後期から大正初期にかけては木橋であった。
一級河川江の川改修事業(甲立地区)と、広島県本村川小規模改修事業により、本村川の河川断面を拡張するために、現存堤防の引堤と嵩上げが行われることから、橋梁部の改築と取り付け道路の整備を行ったものである。
経緯
昭和63年度から用地買収に着手し、平成5年度より迂回路の工事に着手、翌6年度から下部工事にかかった。6年度は右岸橋台、橋脚、右岸護岸、翌7年度に左岸橋台、左岸護岸を構築し、平成8年度から上部工製作、高欄設置を行った。完成は平成10年(1998)7月で、橋長49.2m、道路部有効幅員6.75m、歩道部2.5mの2径間ポストテンション式単純T桁橋である。総事業費は約13億円であった。
事業の概要
三次市三次町寺戸地区は、江の川水系馬洗川と西城川の合流地点(江の川水系馬洗川1K付近、右岸)にあたり、両川が上流より運搬してきた土砂が堆積して三角州のような形状を造った砂州である。昭和47年7月豪雨災害 (1972)時はもとより中小の出水時にも冠水し対策が要望されてきた。
事業の経緯
昭和47年7月豪雨災害後に河川改修に着手し、昭和51年度より築堤工事を開始した。これにより、暫定堤防が馬洗川側700m、西城川側400mに設けられたが、対岸の十日市地区と三次町旭地区の築堤・護岸整備の進捗状況との関連で、三角地帯の先端部が開口状態におかれた。このため、出水時には遊水池の役目を必然的に果たすこととなり、対岸の築堤の進展が待たれていた。
昭和60年度までに、十日市地区と三次旭地区が暫定堤防として一応の完成を見たため、遊水池機能が不要と判断され、昭和60年度に堤防締め切りが行われた。その後は、三次工事事務所としては初の「環境護岸」として整備することとなり、擬木を使用して水際から幅60m、18段の階段を備えた緩傾斜護岸として整備した。
事業の概要
三次市三次町旭地区は、江の川水系西城川と馬洗川が合流する地点(江の川水系西城川0K付近、右岸)にあたり、昭和47年7月豪雨災害(1972)時には、この地区を含む三次市三次町一帯で、浸水面積76.5ha、浸水家屋1,137 戸の被害が生じた。
この地区は天正時代(1573~1592)に三吉氏が町割を始めて以来、歴代の為政者が洪水対策として築堤に取り組んだ歴史のある地区であるが、度重なる洪水に堤防が弱体化し、早急な対策が求められていた。
事業の経緯
改修工事は、旧堤防の川側に民家が建ち並んでいることを考慮し、その前面に堤防法線を決定して、昭和52年度に計画高水位+0.5 mの暫定堤防を構築した。
その後、早期の堤防完成を目指して、昭和59年度までに、旭堤完成伴う家屋移転について地元との交渉を行うとともに、三次市の都市計画街路計画との調整を行った。都市計画街路が旭堤と並行して計画決定されたことを踏まえ、昭和60年度より河川改修、都市計画街路計画の地元説明を行い、建物移転交渉を開始した。
平成元年度に建物移転が完了し、平成3年度に築堤・護岸整備が完了した。
旧堤防は、桜土手として市民に親しまれていたこともあり、旭堤完成後は、三次市の「水辺のまち、みよし21」の基本構想を参考に、潤いのあるふれあい空間として整備することした。この方針のもとに、旭堤防が平成3年度に広島県で最初に「桜づつみモデル事業」に認定されたこともあり、旭堤を中心とした環境整備を建設省(現国土交通省)と三次市が一体となって進めてきた。
桜づつみモデル事業
桜づつみモデル事業は、昭和63年度に創設されたもので、堤防の強化を図るとともに、堤防上に桜の高木を植樹し、河川およびその周辺の緑化を推進することを目的に行われているものである。
「桜づつみモデル事業」の対象となる川は、以下の条件が必要となっている。
事業実施予定区域が河川とその周辺の自然的、歴史的環境等の中で、桜づつみを設け、良好な水辺空間の形成を図る必要があると認められる区域であること。
桜づつみに必要な用地がすでに確保されているか、あるいは市町村等により確保されることが確実であること。
一級河川の指定区間と、二級河川および準用河川の場合は、すでに着手している河川改修事業等の区間に含まれていること。
市町村と地域住民が、良好な水辺空間の整備、保全について高い熱意をもっている河川であること。
事業の概要
三次市水管橋は、寺戸地区にある上水道浄水場から、馬洗川を挟んで対岸の十日市地区に導水する管路を確保するため、昭和42年 (1967)に三次市が架設したもので、管路と並行した幅1mの管理用通路が、寺戸地区と十日市地区を結ぶ生活道となっていた。
架け替え工事は、馬洗川を挟む堤防嵩上げ計画に伴うもので、管理用通路も幅員2.5mになり、歩行者だけでなく2輪車通行も可能となった。
また、架け替えに伴い、寺戸地区の堤防締め切りも実施した。
事業の経緯
新しい水管橋は、5径間連続鋼鈑桁橋で、橋長は173.8m、有効幅員は2.5mとして、旧橋の下流10mに計画した。
架け替え事業は、昭和57年度に事業着手し、同年度には下部工事(橋台2基、橋脚2基)を施工した。翌58年度に上部工に着手し、 59年度には取り付け道路などを整備し、昭和60年(1985)3月より供用開始した。
総事業費は約3億1,580万円であった。
向三原橋は、神野瀬川の2K100付近に位置し、三次市三原町の下三原地区と向三原地区を結んでいる。旧橋は、神野瀬川に鉄線を渡して、それを手繰りながら渡る「繰り舟渡し」が唯一の渡河手段だった昭和初期に、地元の4地区60戸が工費を拠出して建設された吊り橋で、その後、昭和27年(1952)頃に改修が行われ、地区の生活に重要な役割を果たしてきた。
しかし、旧橋は幅員が狭く、改修から30年が経過して老朽化が進み、架替えが要望されていたため、計画中の河川改修に併せて、昭和57年度から架け替えを実施した。
新しい向三原橋は、橋長86.3m、有効幅員 5.0mの3径間ポストテンション連続桁橋で、神野瀬川堤防嵩上げ工事に伴い、旧橋の上流 150mに架設することとした。事業は、昭和57年度に下部工事(橋台2基、橋脚2基)を完了し、昭和58年度に上部工を施工して完成した。総事業費は約1億4,530万円であった。