太田川のこうずいとそのこくふく



 三角州のただ中に(きず)かれた城下町広島(じょうかまちひろしま)にとって、太田川の治水は宿命的ともいえる重要な命題でもありました。洪水(こうずい)崩壊(ほうかい)した鯉城(りじょう)(広島城)の石垣(いしがき)無断修復(むだんしゅうふく)した(つみ)で、信州川中島の小藩(しょうはん)に移封された福島正則(ふくしままさのり)の例などもあり、城下町広島(じょうかまちひろしま)発展(はってん)安泰(あんたい)は、川ざらえと築堤(ちくてい)の工事、いわゆる島普請(しまふしん)成否(せいひ)にかかっていました。島普請(しまふしん)は当初城郭(じょうかく)城下町(じょうかまち)保護(ほご)を第一として(はん)の事業で行われたので、各川とも城郭側(じょうかくがわ)(つつみ)を対岸より高くした。また、洪水(こうずい)で運ばれる土砂(どしゃ)が年々河床(かしょう)を高めるという理由で、1633年(寛永(かんえい)10年)太田川上流域(おおたかわじょうりゅういき)での”鉄穴(かんな)流し”を禁止(きんし)しました。さらに、川筋(かわすじ)の要所要所にお建藪(藩有(はんゆう))・お留藪(民有)という水害(すいがい)を防ぐための植林をさせました。にもかかわらず、洪水(こうずい)惨禍(さんか)は後をたちませんでした。