天神川は、洪水が発生しやすい特性を持っています。
1544(天文13)年の洪水は、人々に大きな影響を与えました。天神川・小鴨川の合流点付近には「見日千軒」といわれた城下町がありましたが、この洪水により失われてしまいました。この洪水により、倉吉市の中心部は打吹城下に移転してしまいました。
「天文の洪水」以外にも多くの洪水に見舞われています。
そのために、古くから各種の治水工事が行われてきました。天神川で大規模工事が始まったのは、幕藩体制がほぼ確立されてからと考えられています。
記録が残っている最も古いものは、元和年間(1615〜23)に作られた「長門土手」(旭田町付近)と呼ばれる堤防工事です。「二重土手」(明治町2丁目)とともに、1673(延宝元)年の天神川大洪水では、さっそく効果を上げました。これらの土手が強固であったために倉吉の町内は浸水を免れることができました。他にも1762(宝暦12)年の洪水の後に築かれたといわれている「千人破戸」(下田中、河原町)もあります。その他にも多くの堤防が築かれた記録が残っています。
忘れてはならないのが、元文年間(1736〜40)に河口開削工事が行われたことです。この工事によって河口は直線化されました。
天神川改修工事が国の工事として動き出したのは、1934(昭和9)年の室戸台風による大きな被害が出た(小鴨橋、出口橋以外は流失し、小鴨村・倉吉町は河原化)の後、本格的な改修工事からです。こうして国による治水工事が行われた結果、天神川の堤防整備率は9割を超え、全国的にも整備の進んだ川となりました。
人々は天神川と闘ってきただけではありません。天神川の水を生活や農業に利用してきました。
天神川水系では、各所に農業用水の取水設備があり、約5000haの農地を灌漑しています。農業用水の大きなものとしては、北条・羽合用水があります。北条用水は、正徳から享保(18世紀初頭)にかけて穴窪の大庄屋大島喜兵衛によって三明寺・小田間を開削し、小田以西に残っていた天神川の旧河道と結び合わせて改修し、完成したと伝えられています。また江北の農民、桝田新蔵は北条砂丘に水田を作ろうと考え、天神川から用水を通して、1861(文久元)年には、西新田開墾地に30haの田畑を開いていました。
|