大塚(おおつか)(ばし)竣功(しゅんこう)()()
所在地ショザイチ 倉吉市クラヨシシ大塚オオツカサキ案内図はこちら
天神川テンジンガワ左岸サガンテイ
  倉吉クラヨシ大塚オオツカからかいの清谷セイダニツウずる道路ドウロをつなぐ八ッ橋ヤツハシフウアツ板橋イタバシが、天神川テンジンガワ清流セイリュウ
かっていた。これがケン架設カセツ大塚オオツカバシ前身ゼンシンであるが、その建設ケンセツ起源キゲンにかかる記録キロクあたらない。
シロ城下町ジョウカマチ要害ヨウガイジョウムカシはめったに永久エイキュウバシをかけることはしなかったので、ワタブネで往来したが、
国府川、出口川のあたりには簡単な低い木橋が架けられ橋銭を払って渡っていた。
  西長瀬から天神の森への連絡のための板橋が架けられ、やっぱり橋銭をとったことのあるのは
明治の初め頃であったと伝えられているが明治18年に山陰国道の開通に伴って江北、田後間に立
派な新天神橋(初めは板橋)が架けられたので銭橋は消滅した。
  大塚オオツカ新田シンデンリョウ部落ブラクともカワヒガシ田畑タバタオオっており、コト大塚オオツカには、川東カワヒガシハタ中央チュウオウ大荒オオアラ
カミ氏神ウジガミシチミネ神社ジンジャがあり、米作ベイサク信仰シンコウ関係上カンケイジョウハン架橋カキョウユルしていたものとオモわれる。
  なぜ、こんな大塚オオツカっておりナカ氏神ウジガミがあるか不思議フシギであるが、このあた
りは、天神川テンジンガワ堆積土タイセキドによる肥沃ヒヨク土地トチであり、原始ゲンシ時代ジダイから稲作イナサクハジめられた重要ジュウヨウサンコメ
域であるが、有史ユウシ以来イライない天神川テンジンガワ洪水コウズイのため、天神川テンジンガワミギヒダリ蛇行ダコウし、上代ジョウダイ以来イライ大塚オオツカ
地域チイキ清谷セイダニ北西部ホクセイブまで迂曲ウキョク進出シンシュツしていたため、シチミネ神社ジンジャのあたりにも相当ソウトウ部落ブラクがあった
のではあるまいか。イマから180ネンマエ元文ゲンブン年間ネンカン小田コダから天神テンジンのあたりまで河川カセン大改修ダイカイシュウオコナわれ
アタラしいカワサカイができたので自然シゼンハシ必要ヒツヨウショウじたものであろう。
  また、このハシからない以前イゼンには北部ホクブアザキョウタン大塚オオツカダイ荒神コウジンから大塚オオツカ部落ブラク穴窪アナクボ
かって日下クサカゴウ大神ダイジンゴウ貫通カンツウする条里制ジョウリセイ当初トウショからの農道ノウドウカヨっていたことは5マンの1の地図チズ
ても推定スイテイがつき、そのミチナンメンしてシチミネ神社ジンジャ創建ソウケンされたカタチになっている。あるいは、このあ
たりに条里ジョウリセイ区画クカク当時トウジ境界キョウカイ標示ヒョウジ基点キテンかのシルシとしての立石タテイシがあってこれが神聖シンセイ地域チイキとし
て保存され、ここに神社ジンジャ出来デキたものかもれない。
  そしてこの往昔の比較的大きい農道が新天神川によって直断されたので、架橋のやむなきに至
ったと見てさしつかえない。しかし、あのだわだわと反動のある板橋を脚の調子にあわせながら
担ぎ荷で渡ることは危険でもあり、現代の営農や交通緩和には間拍子あわなくなった。
  ところへイマツギ大東亜ダイトウア戦争センソウとなりワカ男子ダンシはことごとく召集ショウシュウされ、ノコるは老人ロウジン婦女子フジョシとなり、
明日アス耕作コウサク事欠コトカ状態ジョウタイとなり、部落ブラクヒトたちの困却コンキャクそのえた。トキ役員ヤクイン仲倉ナカクラキチゾウ区長クチョウ
生田イクタ義平、役員坂田金蔵、生田才蔵、生田重之、仲倉源一、青目良明等と語り、この窮地急場を
凌ぐのはまず大塚オオツカバシ架橋カキョウにあるとオモち大誠村出身である県耕地課永田稔技手に架橋の嘆願
をし度々上県、幸いにして助成金81,200円を得て部落無料人夫1,300人役出仕とにより幅9尺長さ
150間の木材による土橋を昭和21年10月完工したのである。
  材料ザイリョウスギザイ八頭郡ヤズグン智頭町チズチョウ木綿モメン材木ザイモクテンマツザイ小田オダ山本ヤマモトタダシオトコより買入カイイれ、その24ネン
部落ブラク出身シュッシン県会ケンカイ議員ギイン生田イクタ才蔵サイゾウ生田イクタ虎蔵トラゾウ尽力ジンリョクによって県道ケンドウ編入ヘンニュウされた。爾来ジライ県道ケンドウハシとし
て29ネンケン30万円マンエン小田コダバシげたフル材48本の支給を受け地元請負にて大補修を行う。つづいて33年
天神川大改修になり地元民の悲願と酒井秀政建設省天神川工事事務所長、本省石破事務次官の協
力によって新橋を掛けかえられることになり、昭和34年9月23日竣工式を挙げた。この工事費
1,060万円ということである。この新大塚橋も同月26日予期もしなかった伊勢湾台風の襲来に
より竣工式後僅か3日目にして流出の憂き目をみたのである。部落の人たちの悲嘆この上もない
ものであった。
  ヨウするに大塚オオツカバシヤク1300ネンマエ全国的ゼンコクテキ敷設フセツされた条里ジョウリセイワリ農道ノウドウヤク180ネンマエ河川カセン大改修ダイカイシュウ
のため旧道キュウドウが直断されたので、その東西要路の通路のために架けられた。このたび再度の天神川
大改修により河幅は2倍にもなり旧天神橋も廃橋となってローレント式の新大橋となったが、大塚、
清谷、ひいて穴窪、中江方面はこの天神橋で大迂回となり、平生の交通運搬には不便もあるので
地方関係住民は少なくとも単車や三輪位通れるような堅牢な永久橋を望んでいた。
  ことに以前のような殆ど洪水毎に流出していった様な弱橋による不安と不経済の苦しみより免
れるには、どうしても永久橋を架ける必要が生じ、時の区長生田義平は生田善太郎、生田岩吉、
生田政秀、川本常敏、生田尚夫、生田勝利等役員と図り倉吉市長早川忠篤、県会議員竹の家啓三
郎、国会議員徳安実蔵、天神川工事事務所長藤田正和、石破知事の協力により東奔西走。
1ヶ年に40回に亘る陳情によって大塚部落の熱願は遂に達せられ36年度から37年12月竣工を目指
して愈々頑丈な永久橋として着工された。その工費4,500万円ということである。
じる