大原の人柱地蔵 | ||||||||||||||||||||||
所在地 | 倉吉市大原字神河原地先(案内図はこちら) | |||||||||||||||||||||
享保六年(1721)閏7月12日から降り始めた雨は13・14日と東風が強く、こと のほか大暴風雨となり、15日には魔の河に変身し、川沿いの土手は決壊して濁流は田端に 奔流し、たちまち砂礫が流入して河原となるなど大被害を受けたとの記録が何回も繰り返し 伝えられている。 時の藩主は、数年間の年貢免除とともに、より強くて頑丈な築堤工事を命じた。しかし、 今までと同じような工事方法では、何れまた決壊するであろうとのことで、このたびの築堤 工事には、昔から生きている人間を埋める「人柱」を立てると、橋や堤防、城なども崩れない と言われていることから、誰いうともなく「人柱」を立てることとなったが、さて誰をその 犠牲にするかの人選となると、誰とて言い出す者もなく、結局、藩の役人に一任し、だれに 白羽の矢がたつのか戦々恐々としているうちに、役人は「かしわ蓑を着た旅人」と決めた。 |
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しかし、「かしわ蓑を着た旅人」はその日は通らず、二日目も通らなかった。そして三日 目を迎えた朝になって「かしわ蓑を着た旅人」が通りかかったところを役人が呼び止めた。 聞けば山陽からやってきた放浪の旅とのこと。ことの次第を知った旅人は観念し、不運を 嘆きながらも犠牲になることを覚悟し、村人の心のこもった食事をすませ、完成間近い工事 堤防の深い穴の中へ消え「南無阿弥陀仏」を唱え始めたが、その声も次第に小さく遠ざかり、 若き一生は、堤防守護のために砂礫を枕に露と消えていった。やがて工事は順調に進んで 新しい堤防は完成し、その後は洪水で決壊することもなく、村人は安心できるようになつた。 現在も石土手の小字名が残っているが、この堤防工事の時に石をふんだんに使って頑丈に した堤防とのことである。 西郷誌 (西郷誌振興協議会) |
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