「しんげんつづみ」「ちゅうじょうてい」ってどんなもの?



信玄堤(しんげんつづみ)
 竜王町(りゅうおうちょう)釜無川(かまなしがわ)御勅使川(みだいがわ)の合流地点にある信玄堤(しんげんつづみ)は、武田信玄(たけだしんげん)によって(きず)かれた堤防(ていぼう)です。ここは毎年雨期になると大水に見舞(みま)われ、付近の住民は苦しめられた。信玄(しんげん)堤防(ていぼう)をここに(きず)くことを計画、天文十年(1541)から実に二十年弱をかけて完成させた。
信玄(しんげん)が用いた工法は、当時としては画期的なものだった。それまで扇状地(せんじょうち)自由奔放(じゆうほんぽう)に流れていた御勅使川(みだいがわ)の流れをまっすぐに固定し、その主流を竜王(りゅうおう)の赤石にぶつけた。さらに「将棋頭(しょうぎがしら)」と()ばれる石組みを(きず)いたもので水流を二分、その水が釜無川(かまなしがわ)と合流するところに石組みを(きず)き、水勢(すいせい)をそいで釜無川(かまなしがわ)と順流させる方法をとった。最後には赤石の下流に千八百b以上にわたる堅固(けんご)堤防(ていぼう)(きず)いて樹木(じゅもく)を植えさせました。

中条堤(ちゅうじょうてい)
 江戸時代(えどじだい)から明治時代にかけて、利根川の洪水(こうずい)から江戸(えど)の街を守った「中条堤(ちゅうじょうてい)」をはじめとする堤防群(ていぼうぐん)現在(げんざい)埼玉県行田市付近(さいたまけんぎょうだしふきん)にありました。中条堤(ちゅうじょうてい)は他の堤防(ていぼう)とともに、大洪水(だいこうずい)の進行を(はば)み、逆流(ぎゃくりゅう)させながらこの地に遊水させ、利根川下流部への洪水負担(こうずいふたん)を軽くさせ、江戸城下(えどじょうか)を水害から守っていたのです。しかし、明治43年の堤防決壊(ていぼうけっかい)以後、連続する堤防(ていぼう)整備(せいび)されることになり、その遊水機能(ゆうすいきのう)渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)やダムなどにとってかわっていきました。江戸(えど)260年の繁栄(はんえい)は、実はこの名もなき堤防(ていぼう)(ささ)えられていたのですね。