川の町広島


太田川の河口

太田川の河口

 太田川の河口(かこう)デルタに都市が本格的(ほんかくてき)発展(はってん)したのは、安土桃山時代(あづちももやまじだい)毛利元就(もうりもとなり)の孫、輝元(てるもと)広島城築城(ひろしまじょうちくじょう)がその始まりといわれています。毛利氏はもともと太田川の河口(かこう)から北東へ45kmはなれた郡山(広島県高田町吉田町(ひろしまけんたかたまちよしだちょう))に(しろ)をかまえていましたが、天正17年(1589)に、ときの城主(じょうしゅ)毛利輝元(もうりてるもと)郡山城(こおりやまじょう)からその当時「五ヶ村」と()ばれていた太田川河口(おおたがわかこう)の地に(しろ)(きず)き「広島」と名付けました。
 広島は河口(かこう)のデルタ地帯につくられた町であり、人々の生活も川への依存性(いぞんせい)が高く、川を大切にしてきました。そのため広島は長きにわたり「水の都」と()ばれ、親しまれてきました。