太田川に川船が盛んだった頃には、地域ごとの船乗りが組織する、船組というのものがありました。加計組(現在の加計町付近)の船乗りの間では、明治、大正を通して船株制度というものがありました。それは問屋の荷物(船で運ぶ荷物)が限られているため船の数が増えると自分たちの仕事が減ってしまうため組の中での船数はきめておいて、誰かが老齢などでやめる場合に限って他の人にその株を譲って組の構成員全員の承認で決めるというものでした。
また、船組の最も重要な活動は「川掘り」でした。「川掘り」というのは、大雨などによる洪水で大きな岩が流れ出したりして、船が川を安全に通れなくなった場合にそれを取り除く作業のことです。水中の岩を動かすのは大変な重労働でした。 |