【参考文献:「目で見る広島市の100年」(郷土出版社:1997年)より引用】
太田川水運の歴史は、はるか中世にさかのぼります。上流の山県郡、
佐伯郡
(
さえきぐん
)
で
伐採
(
ばっさい
)
された木材は
筏
(
いかだ
)
に組まれ、
流域
(
りゅういき
)
で
収穫
(
しゅうかく
)
された米などの
年貢
(
ねんぐ
)
やそのほかの
物資
(
ぶっし
)
は「ヒラタ」と
呼
(
よ
)
ばれる川船によって、
祇園町付近
(
ぎおんちょうふきん
)
に運ばれました。
ヒラタ船にはその積荷の種類によって、不動院付近の
河原
(
かわら
)
で
採取
(
さいしゅ
)
された
礫石
(
れきせき
)
を運ぶ「グリ船」、市内の
糞尿
(
ふんにょう
)
を
沿岸農村
(
えんがんのうそん
)
へ運ぶ「コエトリ船」、上流から
薪
(
まき
)
(たきぎ)や木炭を運ぶ「ワラキ船」、
可部
(
かべ
)
・八木・
緑井
(
みどりい
)
・中調子方面から下流への定期便として各種
物資
(
ぶっし
)
の
運搬
(
うんぱん
)
・
購入
(
こうにゅう
)
を行う「トウカイ船」などがありました。