榺池神社 (ちきりいけじんじゃ) | ![]() |
厳島神社の祭神、市杵島姫命が筑紫から安芸へ移って来る時、 木野川を渡り苦の坂へさしかかりました。 2才の幼子を背負っているので息もきれぎれになり、「えらや 苦しやこの坂は、鉄のちきりもいらぬもの」といって、手に持っ ていたちきり(機織りのたて糸を巻く鉄の棒)を麓の池に投げすてて しまいました。
後に池を埋め社を建て、女神を祀ることになりました。 |
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汐 湧 石 (しおわきいし) | ![]() |
榺池神社の境内に穴のあいた石があり、この穴の中に毎年厳島 |
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苦 の 坂 | ![]() |
この坂は木野川沿いの木野2丁目と防鹿の境付近から山側へ |
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太閤振舞い井戸 | ![]() |
古くからある湧き水で、湧き出る水の量が多く、干ばつでも |
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両 国 橋 | ![]() |
大正6年小瀬村と木野村の有志組合により初めて木橋が架け |
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小林三角和久 | ![]() ![]() |
小瀬川は洪水のたびたび起こるごとに川の流れを変えた。 このため、洪水から村を守ため、「福島堤防」と呼ばれる まき石護岸や「小林三角和久」と呼ばれる石組み堤防を築いた。 三角の出っ張りが、水流の勢いを落とす役目をする。 下流の護岸との組合せで、町を守った。 【西国街道を行くより引用】
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ごじんじ | ![]() |
大名行列が渡る時に殿様のかごを置く石が再現してあります。 |
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渡し場のまき石(福島堤防) | ![]() |
古代から数限りない人々がこの渡し場を利用した。昭和56年 |
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木野の渡し場跡 | ![]() |
安芸浅野藩と、周防毛利藩の国境の川、小瀬川がある。西国 |
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木野の本陣開かずの門 | ![]() |
本陣は、集落の北の山沿いにある。街の中心から門が正面に見 |
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木野の街並み | ![]() |
安芸の国と周防の国の国境の集落、同じ日本でも当時はちゃん |
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吉田松陰の歌碑 | ![]() |
安政の大獄で江戸へ護送される途中の松蔭が、安政6年(1859 年)5月28日、国境小瀬川にさしかかって詠んだ「夢路にもか へらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川」という歌が刻 まれています。 |
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浅生塚(あそうづか)と芦路塚(あしろづか) | ![]() |
浅生塚は、元文5年(1740)に浅生庵野坡をしのんで建てられ |
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中 市 堰 | ![]() |
中市堰は弘化3年(1846年)干拓によって田畑が増えたのを機に |
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三分一源之丞の碑 (さんぶいちげんのじょうのひ) | ![]() |
正保元年(1644)に建設された用水路を、天保年間に瀬田口から |
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願掛地蔵 (がんかけじぞう) | ![]() |
その昔、八幡山の崖下は深い淵で、そこに毎晩のように得体の |
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竹原七郎平渡渉地点 | ![]() |
慶応2年6月14日、小瀬川の朝霧を破る銃火砲声は、これぞ |
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長州の役戦跡 (大竹口) | ![]() |
慶応2年(1866)5月28日長州藩応戦を布告。幕府の先陣 井伊 |
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旧大和橋 | ![]() |
大和橋の歴史は古く、江戸時代末期には、現在の位置近くに |
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米元広右衛門の碑 (よねもとひろえもんのひ) | ![]() |
昭和33年(1958年)生産が完全に中止されるまで、和木は海苔 |
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三秀神社遺跡 (みつぼしじんじゃいせき) | ![]() |
200年にわたる吉川、浅野両藩の国境争いの中で、宝暦2年(1752)10月、小瀬川口の与三野地で起こった騒動は乱闘の末、 |
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鼻繰南蛮樋 (はなぐりなんばんひ) | ![]() |
この樋門は元禄3年(1690)3月、この地(中新開、面積26町 |
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享和開作の碑 | ![]() |
享和開は享和3年(1803)芸防国境和談成立によって領境が確定 |
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小島新開の常夜燈 | ![]() |
小島新開は天保3年(1832)に造られました。この石灯籠は天保 |