榺池神社 (ちきりいけじんじゃ)
  
  厳島神社の祭神、市杵島姫命が筑紫から安芸へ移って来る時、
 木野川を渡り苦の坂へさしかかりました。

  2才の幼子を背負っているので息もきれぎれになり、「えらや
 苦しやこの坂は、鉄のちきりもいらぬもの」といって、手に持っ ていたちきり
(機織りのたて糸を巻く鉄の棒)を麓の池に投げすてて しまいました。

後に池を埋め社を建て、女神を祀ることになりました。
 これが榺池神社である。

(しおわきいし)  

榺池神社の境内に穴のあいた石があり、この穴の中に毎年厳島
神社の管弦祭の日である6月17日(旧暦)夜、海水が湧き出る
という。

苦 の 坂  

この坂は木野川沿いの木野2丁目と防鹿の境付近から山側へ
4町9間
( 452)の急坂をもち、古くから大河原山、立戸山
とともに防長に対する先陣の適地として注目されていた。

太閤振舞い井戸  

古くからある湧き水で、湧き出る水の量が多く、干ばつでも
水が枯れることをありませんでした。

 そして、飲み水、かんがい、紙すき、防火用水として広く使
われていました。

 文禄・慶長(15921597)の役で九州名護屋城に、太閤秀吉は
二度陣頭指揮のため往復した記録がある。

 その折りの伝承として、秀吉軍が山陽道木野路通過の折り、
村人たちがこの井戸の水でお茶を点て差し出したところ、大変
ご満喫されたと伝えられている。

 

大正6年小瀬村と木野村の有志組合により初めて木橋が架け
られました。

 周防・安芸両国にまたがることから両国橋と名付けられ、当初
有料橋として、大人一銭、人力車二銭であったため別名「一銭
橋」と呼ばれていました。

 いくたびかの洪水で流失を繰り返した木造の両国橋は、昭和
23年に永久橋として架け替えられました。
 昭和28年堤防改修の際、橋梁の改築が行われ、現在の両国橋と
なりました。

 

小林三角和久 小林三角和久 
  小瀬川は洪水のたびたび起こるごとに川の流れを変えた。
 このため、洪水から村を守ため、「福島堤防」と呼ばれる
 まき石護岸や「小林三角和久」と呼ばれる石組み堤防を築いた。
 三角の出っ張りが、水流の勢いを落とす役目をする。
  下流の護岸との組合せで、町を守った。

【西国街道を行くより引用】

ごじんじ  

大名行列が渡る時に殿様のかごを置く石が再現してあります。

渡し場のまき石(福島堤防)  

古代から数限りない人々がこの渡し場を利用した。昭和56
12月に大竹市教育委員会の発掘調査で雁木が見つかり、当時を
今に伝えている。また江戸時代初頭につくられた強固な「繢石」
(まきいし)は、度重なる洪水に耐え中津原を守り、昭和5811
月に大竹市文化財に指定されました。
 「繢石」は、「福島堤防」と語り継がれていますが、はっきり
した築調年代はわかっていません。

木野の渡し場跡  

安芸浅野藩と、周防毛利藩の国境の川、小瀬川がある。西国
街道の渡し場としては、まき石護岸の西側に舟着きスロープが
残っている。
渡し賃は、武士が無料、一般の人は、江戸時代初期でこめ一
合が徴収されていた。中期には、二文、牛馬は四文であった。
 渡し場は、舟渡しで川幅約22m、水深1.4m 徒歩渡しで
川幅
約22m、水深0.70m程度であった。舟渡しは木野、小瀬村から出さ
れた「渡し守」が二人一組で昼夜交代して行い、その費用は芸防両国
で負担した。
【西国街道を行くより引用】
 

木野の本陣開かずの門  

 本陣は、集落の北の山沿いにある。街の中心から門が正面に見
 える。

   この門は、開かずの門と言われ、いつもは閉まっているが、参
 勤交代の殿様が来た時のみ、この門が開き木野の渡しまで主が迎
 えに出る。塀越しに立派な庭が見える。

【西国街道を行くより引用】

木野の街並み  

 安芸の国と周防の国の国境の集落、同じ日本でも当時はちゃん
とした国境、通常では行き来はない。国境を流れる川は小瀬川と
いうが、広島藩では木野の集落の名に由来する木野川と呼んでい
る。

  宿場町ではないが、雨などにより足止めはあったようだ。木
野の街並みは、全体がこぢんまりとしているが、昔の風情がよ
くまとまって残っている。【西国街道を行くより引用】

吉田松陰の歌碑  
 
  安政の大獄で江戸へ護送される途中の松蔭が、安政6年(1859
 年)5月28日、国境小瀬川にさしかかって詠んだ「夢路にもか
 へらぬ関を打ち越えて今をかぎりと渡る小瀬川」という歌が刻
 まれています。
 
浅生塚(あそうづか)と芦路塚(あしろづか  

 浅生塚は、元文5年(1740)に浅生庵野坡をしのんで建てられ
 ました。野坡は芭蕉に学び、蕉門十哲の一人として名を残しま
 した。野坡は、その半生を俳諧の旅に過ごし、大竹にも十数度
 滞在しています。その都度俳諧の会を開き、同好の人々「竹
 里連中」の指導をしました。
  昨飽庵芦路は、厳島の人でしたが、結婚後大竹に住んで野坡
 の俳風を伝え、安永2年(1773)頃、73才で亡くなりました。

 

中市堰は弘化3年(1846)干拓によって田畑が増えたのを機に
農業用水を引くために作られました。

 昭和26年の災害により昭和27(1952)に、木製の井堰から
鋼製転倒ゲート
(70)に改築され、現在の中市堰は、平成6年
(1994)に完成しました。
 ゲート数は3門ありその両側には魚の通り道が設置してあります。
この堰は塩水がさかのぼるのを防いだり、小瀬川から農業用水を取る
役割をもつ重要な堰です。
 

三分一源之丞の碑 (さんぶいちげんのじょうのひ)  

正保元年(1644)に建設された用水路を、天保年間に瀬田口から
五本松まで延長し、開閉式堰堤
(中市堰)と、うぐろ樋(瀬田川の
下を潜り用水を送る仕組み
)によって小瀬川から直接水を引き、
和木・装束一帯の農地に潤いを与えた三分一源之丞
(天保11年
1840)父子の顕彰碑です。
 源之丞はその完成を看ることなく亡くなりましたが、その志は
嫡子権四郎によって受け継がれ、見事に完成されました。

【和木町HPより引用】

願掛地蔵 (がんかけじぞう)  

その昔、八幡山の崖下は深い淵で、そこに毎晩のように得体の
知れない怪物が現れるというので、日が暮れると怖がって誰一人
通る者がいなくなりました。

 そこで、道辺に地蔵菩薩をお祀りしたところ、それから怪物が
出なくなったのでお地蔵様への信仰が高まり、諸事の願掛けが行
われるようになったと伝えられています。
【和木町
HPより引用】

竹原七郎平渡渉地点  

慶応2年6月14日、小瀬川の朝霧を破る銃火砲声は、これぞ
幕府の第二次長州征伐
(四境の役)の芸州口戦争の発端であり、同
時にそれは明治維新の黎明をつげる時代の響音でもありました。
 
この緒戦において幕府の先鋒彦根藩士竹原七朗平とその従者は
先陣を切って小瀬川渡河中、長州軍の銃撃に遭い、壮烈な戦死を
遂げました。

長州の役戦跡 (大竹口)  

慶応2年(1866)5月28日長州藩応戦を布告。幕府の先陣 井伊
・榊原軍が大竹口に軍を進め、木野川を隔てて毛利・吉川軍と相
対した。
 
6月14日未明、戦いの火蓋は切られ、大竹口で激戦の末、幕
府軍が敗走した。死傷者多数、兵火により家財を失う者は9千人
にのぼった。

旧大  

大和橋の歴史は古く、江戸時代末期には、現在の位置近くに
土橋があったという記録があります。

 幕末以降の大和橋は明治13年の架橋が初代で、その後洪水
などによる流失と修繕を繰り返してきた。二代目は、大正15
年に架けられ、昭和26年ルース台風により中央径間が流失し
ましたが、昭和28年に修復されました。

 大和橋は、栄橋が昭和17年に完成するまで、和木・大竹を
結ぶ唯一の橋として、重要な役割を果たしてきましたが、老朽
化が進み平成9年に現在の橋に架け替えられました。

米元広右衛門の碑 (よねもとひろえもんのひ)  

昭和33(1958)生産が完全に中止されるまで、和木は海苔
の養殖の大変盛んなところでした。その海苔養殖を和木で初め
て成功させたのが米元広右衛門です。

 米元広右衛門(文政6年~明治22年)は、若くして殖産に志
し、織工、製紙、養蚕など多くの事業を手がけましたが、こと
ごとく失敗しました。しかし挫折することなく、晩年小瀬川河
口に海苔の養殖を思いつき、ひたすら研究を続け試行錯誤を重
ねた末、明治21年ついに成功を収めました。

 以来、農家では海苔の製造を副業とし、家計を潤しました。  【和木町HPより引用】

三秀神社遺跡 (みつぼしじんじゃいせき)  

200年にわたる吉川、浅野両藩の国境争いの中で、宝暦2年(1752)10月、小瀬川口の与三野地で起こった騒動は乱闘の末、
双方に多数の死傷者を出す惨事となりました。

 それから50年後の享和2年、両藩は和解し国境が確定しまし
た。この時、吉川藩主は祠を建て、犠牲となった野脇新六、坂戸
源右衛門、兒玉良兵衛の3人を神に祀りました。

【和木町HPより引用】

鼻繰南蛮樋 (はなぐりなんばんひ)  

この樋門は元禄3年(1690)3月、この地(中新開、面積26町
9畝23歩 約26㌶)の築造時に潮止めのため設けられたもの
です。

 当時この樋門の内側に鷹匠の池と言われる沼があり、芦蒲が茂
って鷺鴨が多く生息し鷹猟が行われていたと伝えられています。

享和開作の碑  

享和開は享和3年(1803)芸防国境和談成立によって領境が確定
し、小瀬川が一条筋となった際はじめて藩営で干拓されたもので
堤防を築き潮止めをし内側の陸化に成功したものである。
(干拓
面積32町余
)

小島新開の常夜燈  

小島新開は天保3年(1832)に造られました。この石灯籠は天保
6年
(1835)大阪の商人や大竹の有志により、航海の安全を祈って
住吉神社に奉納されたものです。高さが約
4.8㍍ある常夜燈です。 当時、大竹では和紙が盛んに作られていましたが、この常夜燈
は、河口をとおり木野川を上り下りして商いをした船の燈台の
役目をはたしました。