国土交通省 中国地方整備局 殿ダム工事事務所
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い

【い】
因幡とは 刈稲寄せ場 名のいわれ

因幡の地名は、稲の刈り場、稲場に由来していると言われています。古くは「稲羽」と書かれ、『古事記』にも「稲羽の素兎」と書かれています。これは当時の政治の中心地、国府が置かれた法美郡稲羽郷の名を用いたもので、国の名を因幡とした後も、稲葉の名は郷名として残りました。【題材風土資産】因幡の地名由来

ろ

【ろ】
ロマン満つ 因幡・万葉 歴史の地

国府町には、万葉の里として多くの歌人の歌碑があります。斉衡二年(八五五)に因幡国守となった在原行平が詠んだ歌に「いなば山」が登場します。『立ちわかれ いなばの山の 嶺に生うる まつとしきかば 今帰りこむ』 百人一首にも選出されているこの歌は、一説には松風・村雨姉妹とともに暮らした稲葉山での生活が終わり、二人との別れを惜しんだ歌と言われています。因幡国府の地には、万葉時代のロマンに満ちた歴史が数多く伝わっています。

【題材風土資産】万葉歌碑


は

【は】
治道の 乙卯水の 四善政

第六代藩主・池田治道公が寛政七年(一七九五)の「乙卯水」と呼ばれる大洪水時に、四つの善政を施したことが語り継がれています。一つ、洪水の後、食料が水に浸かり困窮していた町民に炊き出しを施した。二つ、届け出れば、米を貸すとの号令を出した。三つ、藩の倉米を舟で運び込み、値段を安くして提供した。四つ、物価を高くしたものを処罰した。また、それに応えるような町人達の助け合いの心も伝わっています。【題材風土資産】乙卯水と池田治道公

に

【に】
二位の墓 新井の石舟 匠技

新井の石舟は、長さ一.五メートル、横一メートル、深さ〇.七メートルの凝灰岩を精巧に加工した家形石棺がある古墳のことです。壇ノ浦の合戦の折、岡益に落ち延びてきた安徳天皇の祖母、二位の尼の墓だとする言い伝えがあり、“二位の石舟”とも言われています。また、石棺の中に常にたたえる水をかき乱すと百日間雨が降り続くとも言われ、新井(にい)地域では現在でも供養の祀りが執り行われています。

【題材風土資産】
安徳天皇の祖母二位の尼の墓


ほ

【ほ】
防御線 川への出入り 「いとば」なり

「いと場(為登場)」とは、江戸時代から昭和の始め頃まで袋川に数多くあった、川への降り口のことです。川船に積んだ荷物の積み上げや、洗濯をする場であり、また、この降り口以外を全て竹藪として、敵の来襲に備えた防御線としての役割や、洪水への防御としました。二十一世紀、天変地異の世紀に突入し、今後ますます水への防御的な備えが必要となるのではないでしょうか。【題材風土資産】袋川のいとば

へ

【へ】
平時より 水質保全 御法度

袋川の水は鳥取城下の町人のための飲み水、生活用水として大切に水質保全がなされました。寛文三年(一六六三)から、水遊び、ゴミ捨て、汚らしいものを洗うこと、川での洗濯の禁止や、肥え舟の通行区間を設置するなど、袋川の水質保護を目的とした『袋川御法度』が度々出されました。また、お盆の十五日に行われていた燈籠流しについても、寛政六年(一七九四)に千代川で行うように藩命が下されました。

【題材風土資産】袋川御法度之覚


と

【と】
殿ダムは 治水・利水の 要なり

袋川の歴史は、これまで水害と渇水との闘いでした。殿ダムは国家百年の計として、袋川の治水と利水の役割があり、袋川流域地域の切り札的な存在となります。川の環境を守りながら、放水量を調節して洪水の被害を少なくしたり、鳥取東部地域の発展のために必要な水や農作物に必要な水の量を確保し、クリーンな電気を作り出す役割を担うなど、今後の地域の発展に貢献する要となります。【題材風土資産】殿ダム

ち

【ち】
長通寺 ふすま絵見事 大波涛

長通寺のふすま絵は、八百谷冷泉画伯によって賀露港に打ち寄せる北西の風による大波涛が見事に描かれた大作です。冷泉は明治二十年鳥取市に生まれ、町内の中住道雲の手ほどきを受け、後に京都に出て丸山春挙に師事し、丸山応挙の写実風にさらに近代画風を取り入れた独特の画風を生み出しました。昭和十九年から十年間同寺で生活し、住職から日本海の絵を所望されて描いたのがこのふすま絵です。

【題材風土資産】
長通寺のふすま絵 賀露港


り

【り】
立派なり 伊福吉部徳足 比売の塚

無量光寺の裏山に伊福吉部徳足比売の墓跡があります。徳足比売は因幡国法美郡の豪族伊福吉部氏の娘で、文武天皇の御代に大和の宮廷に仕えて慶雲四年(七〇七)には従七位下を賜りましたが、和銅元年(七〇八)年に亡くなられました。その後火葬されて郷里の因幡国に送られ、骨蔵器に納めて葬られたという旨が蓋に刻字されています。伊福吉部氏は渡来人ともいわれ、因幡の開拓に寄与した部族のルーツではないでしょうか。【題材風土資産】
伊福吉部徳足比売の墓跡

ぬ

【ぬ】
主自害 兵糧攻めの 生き地獄

羽柴秀吉は第二次鳥取城攻めにおいて、因幡中の穀物を時価の数倍で買い占め、日本海から鳥取平野、久松山の東側にかけて約二十キロメートルにも及ぶ包囲網を敷いて徹底的に兵糧攻めをしました。孤立無援となった鳥取城では次第に食糧が尽き、ついには人肉まで食するという生き地獄状態になったと伝えられています。秀吉からの開城の求めに応じて、城主の吉川経家公が自害し、四ヶ月の攻防戦は終焉を迎えました。

【題材風土資産】秀吉鳥取城攻め


る

【る】
留守の水 高麗水で 町悲惨

文禄二年(一五九三)八月の大洪水は、豊臣秀吉が朝鮮の高麗に出兵中に起こった洪水であったことから、「高麗水」と称されるようになりました。七月末より太陽に雲霧が覆い雨は止む間なく降り、八月の中頃から豪雨が続いて希有の大洪水となりました。壮年や若者はみな徴収され出兵していた時に起きた災害であったため、人畜に及ぼした被害は殊に大きく、また、復旧作業の労も大変なものであったと伝えられています。【題材風土資産】高麗水

を

【を】
雄雄しい方 経家の像 哀れなり

鳥取城主となった吉川経家公は、天正九年(一五八一)、羽柴秀吉の山陰侵攻において、およそ四千の兵と民と共に四ヶ月間籠城を続けましたが、秀吉の包囲網の中、援軍も食糧の補給も受けられず、飢餓地獄と化した兵民を救うために開城し、責は城主たる自分にあるとして自刃されました。その潔い最期は武人の鑑として歴史的に高く評価され、鳥取城のふもとに「吉川経家公像」が建立され、地域の方々から温かく見守られています。

【題材風土資産】吉川経家公


わ

【わ】
若桜・智頭 鹿野・鋳物師 出合橋

袋川には鳥取藩の藩橋が五橋ありました。その若桜橋、智頭橋、鹿野橋、鋳物師橋、出合橋は、藩指導のもと洪水で流されないように桶や大石を橋の重しとする他、大綱で橋脚を結ぶなどの方策をとっていましたが、記録的な大洪水の場合は橋の流失は免れず、その度に架け替えが行われました。乙卯水後の復旧作業では町人が自発的に架け替えを行ったという希な記録も残っています。【題材風土資産】乙卯水五橋流失

か

【か】
傘踊り 雨乞い祈願 鈴の音

因幡の傘踊りは、江戸時代末期の大干魃の時、五郎作という年老いた農夫が三日三晩菅笠を振り回して踊ったという雨乞い祈願に由来し、百個もの小鈴をつけた、赤、白、青、金、銀と美しく彩った長柄の傘を、揃いの単衣に手甲脚絆と白鉢巻き白襷姿で、唄に合わせて振り回す勇壮で激しい踊りです。この踊りは山本徳次郎により芸術性の高い郷土芸能にまで高められました。鈴の音は来るべき天変地異への警鐘の音のようにも聞こえてきます。

【題材風土資産】因幡の傘踊り


よ

【よ】
良き甘茶 神護自慢 万能薬

神護地区で栽培されている甘茶は、神護の特産物としても有名です。甘茶は山間地域に適した作物で、六月中旬頃から収穫され、乾燥後に出荷されます。甘露を注いで産湯とした故事にならい、古くからお釈迦様の誕生祝いの灌仏会の際に仏像に注ぐものとしても用いられています。山紫陽花の変種の植物で、葉は乾燥させると甘味成分が増し、甘くて低カロリーで身体に良い万能薬です。【題材風土資産】神護の甘茶

た

【た】
大応寺 川の底から 観音様

浜坂バス停のすぐ近くに曹洞宗の大応寺があります。この寺の聖観音像は、水に流されて近くの川岸の泥の底に埋まっていたのを発見され、江戸時代に復元修理されたものです。古来より度重なる洪水の歴史と大きさを、その身をもって体験したと私達に伝えている観音様ではないでしょうか。

【題材風土資産】浜坂大応寺聖観音像


れ

【れ】
歴代の 池田家の墓 亀の上

池田家の墓所には、初代鳥取藩主池田光仲公から十一代慶栄公までの歴代藩主とその夫人、分家当主等七十五基の墓碑が、二百七十余りの燈籠とともに整然と立ち並んでいます。歴代藩主の墓碑は、いずれも玉石垣を巡らして三段の台石の上に亀趺と呼ばれる大亀の形をした石を据え、円頭扁平な墓碑を建てた格式高いものです。平成の町村合併で誕生した新しい鳥取市の市域の輪郭は、足を踏ん張って重いものを支えている亀趺のかたちに見えてきます。【題材風土資産】池田家の墓所 亀趺

そ

【そ】
その走り 近代水道 美歎ダム

美歎ダムは、近代水道ダムとして山陰地方第一号となる記念すべきダムです。大正四年に完成しましたが、大正七年九月十四日の大雨で堤が崩れ落ち、溜水が美歎地区へ流れ出して死者八名を出しました。翌年から復旧工事が行われ、強固な堰堤として再生しましたが、老朽化のため昭和五十三年に水道用のダムとしての運用は停止しました。その後、転用工事を行い平成十年に砂防ダムに生まれ変わりました。

【題材風土資産】
近代水道ダム山陰地方第1号


つ

【つ】
追放者 御城下払いと 川払い

池田藩の律によると、「御追放者御構場所」として罪人の追放には二つの仕様がありました。一つは“袋川払い”、もう一つは“御城下払い”です。御城下払いは城下には入ってはならないこと、袋川払いは「一本橋(吉方)より出会橋場所木戸迄を限り、上は川を越え候う共に、立川大橋より天神川を限りとして御城下の方構」とあるように、追放者は袋川より中に入ってきてはならないことが決められていました。【題材風土資産】
袋川払い、御城下払い

ね

【ね】
年貢米 千代河口 さかのぼる

鳥取城下への年貢米は、千代川の河口から袋川を遡って藩蔵へと運び込まれました。その他にも河口から様々な品が運ばれ、袋川筋には材木問屋や魚・青物市場などが置かれていました。また、藩主が賀露の御茶屋や下屋敷へ向かう際の交通路、光仲公の墓標を運ぶ運搬路としても使われ、川船の妨げや目障りになるような行為を禁止するお触れも出ており、袋川の水運が重要な役割を果たしていたことがうかがえます。

【題材風土資産】千代川、袋川の舟運


な

【な】
懐かしき 神護水車の 杵の音

かつて、袋川には数多くの水車がありました。神護地域では神護川沿いに多いときで三基の水車が設置され脱穀等に活用されてきました。現在、地域活性化の一大プロジェクトとして水車の復活が試みられ、河川改修工事によって新たに整備された敷地に神護川から引き込んだ専用の水路を設け、水車を回しています。水車の動力で脱穀した水車米が神護の古き良き風景と音色と味を甦らせます。【題材風土資産】水車の復活

ら

【ら】
乱流を 扇の要で 固定する

袋川は、標高千三百十メートルの扇ノ山を源とした全長二十八.四キロメートルの河川です。鳥取市市街地を横断して千代川に合流しているため、洪水になれば大きな被害を引き起こします。袋川の流れは玉鉾の地を扇頂として、今在家、卯垣を裾野とする、きれいな扇状地形をしています。扇状地の乱流は扇の要の扇頂部の治水が最も重要であり、このポイントの直上流部を殿ダムが治めることにより、氾濫を食い止めることができるでしょう。

【題材風土資産】袋川と国府平野地


む

【む】
武者走り 敵から護る 兵站線

武者走りとは、城壁や城のまわりの土手の内側に設けた通路のことを言います。鳥取城下では袋川の付け替え工事に伴い、いと場とともに、川土手の内側に幅二間(約三・六メートル)の通路をつくりました。この武者走りは、敵に包囲された場合に備えたもので、本陣と戦場を連絡するための輸送連絡路となる、兵站線を確保する重要な役割を担うものです。【題材風土資産】
袋川の付け替え工事と武者走り

う

【う】
海風が 逆流もたらす 宿命地

千代川の河口並びに袋川河口部は北西の海風が洪水の逆流をもたらし、洪水の流出の阻害となり洪水被害が大きくなるという宿命を背負っています。この海風は大鳥取砂丘の形成にも大きく寄与しており、外海から打ち寄せる波は海底を攪乱しながら沿岸州の汀線付近に砂を打ち上げ、潮流が砂を運びまた打ち上げるといった自然の営為が繰り返されて、次第に砂丘誕生へと繋がっていきました。それほど、海から吹く風が強い地域であるのです。

【題材風土資産】
鳥取砂丘の形成と海風


ゐ

【ゐ】
居並ぶは 久松・雁金 丸山城

吉川経家が守備する久松山の鳥取城、塩冶高清を将とする雁金山の雁金城、鳥取城の出城であり奈左日本之助らが守る丸山の丸山城は、天正九年(一五八一)羽柴秀吉による鳥取城攻めにおいて籠城を続けた三山です。毛利家からの補給物資は袋川水路を使って丸山城から雁金城を経由し本城に輸送されていましたが、物資の補給を行っていた要塞の地、雁金砦が落とされたため、ついに補給は途絶え落城しました。【題材風土資産】
吉川経家奈左日本之助鳥取城守備

の

【の】
野道沿い 道標地蔵と 常夜燈

袋川下流は智頭街道、若桜街道、鹿野街道、法美(雨滝)街道の拠点です。宮下の道標地蔵は、昔、中郷橋が架かっていた所にあり、享和元年(一八〇一)に角屋徳兵衛が雨滝の分岐点に旅人の便宜と安全を願って建てたといわれています。また、稲葉山にある道標地蔵は、稲葉山の山道横に建ち、国府から但馬方面への近道になります。かつては街道沿いに多くの道標、地蔵や常夜燈が建ち、人々の往来を見守ってきました。

【題材風土資産】
宮下、稲葉山、雨滝の道標常夜燈


お

【お】
扇ノ山 水源名山 最高峰

鳥取県と兵庫県の県境に位置する扇ノ山は、標高千三百十メートル、国府、郡家、八東、若桜との境でもあります。南北に連なるなだらかな尾根筋と、裾野に広がる広大な高原からなり、遠くから見ると扇の形に似ていることから名付けられました。袋川はこの扇ノ山に源を発し、雨滝地区にある県下最大の滝である雨滝から西流して国府町を抜け、鳥取市街地へ流れ出ていきます。【題材風土資産】扇ノ山

く

【く】
供養塔 溺死者の山 海会塔

浜坂の小丘上に「溺死海会塔」と刻まれた水害供養塔があります。寛政七年(一七九五)、八月二十四日から三十日にかけて降り続いた雨により鳥取平野は深さ一.五メートルから三メートルもの水に覆われ、円通寺、国安、袋川などの堤防が次々と決壊して家屋を押し流しました。溺死者は六百五十人を超え、海風により海へ流出せずに吹き溜まった遺体が山のようになっていたといわれています。「乙卯水」と呼ばれる洪水の悲惨な歴史と記憶を今に伝える供養塔です。

【題材風土資産】浜坂の溺死海会塔


や

【や】
薬研堀 池田長吉 柳土手

慶長六年(一六〇一)関ヶ原で東軍に味方した池田長吉公が鳥取城主を封ぜられ、入府後、城の拡張と城下の整備を行いました。現在の市役所から醇風小学校に至るまで堤防を築き、土手に柳を植えたのでこれを柳堤といい、また外側に堀を掘って、袋川の水を通しました。寺町辺りから江崎方面に切り込んで流れた袋川筋や、長吉公が掘った若桜町惣門から柳蔵までの堀は、薬研に似た断面だったので薬研堀と呼ばれました。【題材風土資産】
城下の整備と袋川の堤防

ま

【ま】
万葉の 大伴家持 歌碑の里

因幡の国府は、万葉集編纂者・大伴家持の縁の地です。天平宝字二年(七五八)に因幡国守として当地に赴いた大伴家持は、翌年の元日、淳仁天皇即位後の初朝賀の日に、因幡国庁にて天皇を讃える歌を詠み、万葉集四千五百十六首の最後を締めくくる歌としました。現在残されている資料では、因幡国赴任中に家持が詠んだ唯一の歌といわれています。『新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事』

【題材風土資産】大伴家持と万葉の里


け

【け】
契機なる 三大水害 大改修

大正元年九月、大正七年九月、大正十二年九月と大正時代に起こった度重なる大洪水被害が契機となり、千代川、袋川の抜本的な河道付替えの大改修工事が大正十五年から昭和九年まで行われました。鳥取市秋里付近で大きく右回蛇行していた千代川下流を海へ直進させる新しい水路が開かれ、これに伴い蛇行を重ねる袋川も、大杙から千代川鉄橋付近に千代川に合流する放水路、新袋川が開かれました。【題材風土資産】千代川、袋川改修

ふ

【ふ】
ふるさとは 岡野貞一 想い馳せ

『兎追いし かの山 小ぶな釣りし かの川』。日本人なら誰もが口ずさめる唱歌「故郷」は、鳥取県古市で生まれた岡野貞一が作曲しました。詩は長野県の山間の村で生まれた高野辰之が、故郷の情景を思い描きながら作ったといわれています。岡野もまた、己の故郷であるここ鳥取の久松山や袋川の景色を思い起こしながら、この詩にメロディーを乗せたのではないでしょうか。

【題材風土資産】
唱歌「故郷」作曲家岡野貞一


こ

【こ】
香合石 離水海食 海記憶

昔、鳥取平野は海の底でした。「離水海食洞」は海の波浪によって形成された高さ一メートル、幅〇.六メートル、奥行十八メートルの海食洞です。現在は海岸線から遠く離れた場所にあり、縄文海進時代(約六千年前)の海岸線を今に伝える重要な洞です。また、「香合石」は海進海退の作用によって自然が作り上げた珍しい石で、表皮は褐鉄鉱ですが、内部に粘土を含んで空洞になり、香合のような形をしていて、たたくと高い金属音を発します。【題材風土資産】海進海退と香合石

え

【え】
エンタシス 岡益石堂 安徳帝

岡益にある石堂は、六メートル四方の基壇上に、厚さ約〇.四メートル前後の礎石で囲われた石室の中央に、高さ一.八メートルのエンタシス方式の円柱が立てられ、その上部の中台には忍冬唐草文様(パルメット)が浮き彫られている七世紀後半の建造物です。壇ノ浦の合戦から逃れてきた安徳帝がこの地に留まり、崩御されたという伝説が残されていて、明治二十九年に安徳天皇御陵参考地として指定を受けました。

【題材風土資産】
岡益石堂と安徳帝伝説


て

【て】
手放山 神垣富士の うつくしさ

標高四百六十一.二メートルの手放山は袋川流域の「内の四山」の一つで、美しい山容から地元の人からは別名「神垣富士」とも呼ばれています。そしてその手放山と宝山との間には袋川が流れています。【題材風土資産】別名神垣富士

あ

【あ】
雨滝の 四十八滝 美を競う

袋川の上流には、日本の滝百選に選ばれた雨滝をはじめ数多くの滝があり、雨滝四十八滝と呼ばれています。四十八という数字は実際の滝数を示すものではなく、いろは四十八文字に例えて数の多さを表しています。白布を引いたように見える布引の滝や、四段の重箱が谷の斜面に並んで一つの滝をつくっている筥滝、岩が樋の如く三段になった急流の樋滝など、個性豊かな多くの滝を見ることができます。

【題材風土資産】雨滝四十八滝


さ

【さ】
三山は 甑・面影 今木山

因幡三山は因幡国庁跡を取り囲むように身近に位置する、三つの山を指しています。国庁跡から夕陽に照らされた美しい姿を見ることができる面影山、国庁跡の南東にあり平野に屹立する今木山、国庁跡から朝日を迎える真東に位置する甑山のことを指し、国府に赴任してきた当時の人々にとって、これらの山々が大和三山(耳成山、畝傍山、天香具山)を彷彿させたであろうことに因み、昭和三十年頃命名されました。【題材風土資産】因幡三山

き

【き】
久松山 天下の名城 鳥取城

鳥取市街地の背後にそびえる久松山は、山上に鳥取城があったため「城山」とも呼ばれています。鳥取城は天文十四年(一五四五)因幡守護の山名誠通によって築かれたといわれており、羽柴秀吉の徹底的な兵糧攻めと城主吉川経家公の誇り高き決断によって遂に陥落した歴史を持つ、難攻不落の名城でした。その後、池田家の居城として明治まで存続しましたが、現在は、城跡は久松公園として整備され、また桜の名所にもなっています。

【題材風土資産】
別名城山と呼ばれる鳥取城


ゆ

【ゆ】
ゆったりと 麒麟獅子舞 宇倍神社

宇倍神社は孝徳天皇の御代、大化四年(六四八)の創建と伝えられています。延喜式には県下唯一の名神大社と記され、また因幡の国一ノ宮の称号を得る格式高い神社です。毎年四月二十一日の例祭には、池田光仲公により創始されたといわれる「麒麟獅子舞」が神前に奉納されます。「麒麟獅子舞」では、笛、鉦、太鼓の調べに合わせ、因幡地方特有の一本角の獅子頭を持つ獅子が厳粛に舞い踊ります。【題材風土資産】因幡の国一ノ宮

め

【め】
名水の みどり豆腐 無農薬

雨滝の名水で作る豆腐は、無農薬で栽培されている緑色の大豆を使って作られています。その若草色をしてふわっとした甘みのあるこの豆腐のことを「みどり豆腐」と呼び、雨滝地域の名産となっています。雨滝ではみどり豆腐を使った豆腐料理のほか、そのおからや豆乳を使った料理も味わうことが出来ます。

【題材風土資産】
雨滝の名水で作る豆腐


み

【み】
光仲を 遷封水 出迎える

寛永十二年(一六三五)八月、池田光仲公がお国替えで鳥取城主となった直後に大洪水が起こり、「遷封水」と名づけられました。七月下旬より連日雨が降りしきり八月になっても止まず、大雨はお盆をひっくり返すような激しさで、ついには袋川の堤防を押し破って市中に流れ出ました。水は七~八尺(約二メートル強)から一丈(約三メートル)の深さにまで及び、家屋も人も押し流され、大きな被害を出したことが伝えられています。【題材風土資産】遷封水とその由来

し

【し】
偲ばれる 光政つけかえ 桜土手

元和三年(一六一七)姫路藩から鳥取藩に転封になった池田光政公は、鳥取城下を大拡張するために袋川の付け替え工事を行いました。吉方稲平のドントから出合橋にかけての間に、幅七間(約十二.六メートル)、深さ三間半(約六.三メートル)の溝を掘り、さらに外側に川の流れを変えました。この新川掘削工事によって掘り出された土で築かれた土手は、今では桜の名所となり、桜土手と呼ばれています。

【題材風土資産】
新川掘削工事による土手


ゑ

【ゑ】
絵の如し 京ケ原用水 上地棚田

袋川の上流地域、上地地区ではまるで絵のように美しい棚田の風景を見ることができます。そしてその棚田を潤しているのが、京ヶ原用水です。標高三百メートルから六百メートルにある二十ヘクタールの棚田に潅水するために、上地川上流の渓流より取水し、急峻山腹に沿って約三.九メートルを導水するこの用水路は、明治時代に開削されました。最近では、ここで栽培した酒米で日本酒を醸造する取り組みも行われています。【題材風土資産】上地の棚田

ひ

【ひ】
ビックリす 種稲水 五月雨

江戸時代の五大水害の一つは寛文十三年(一六七三)の五月に起こりました。ちょうど田植時だったので「種稲水」、または「丑年の水」とも称されています。大雨がしきりに降り注いで川の水が溢れ、但馬殿橋、鋳物師橋、丹後町の橋が落ちましたが、外構の土手が崩れなかったので、危機は免れました。郊外の浸水は深さ八~九尺(約二.五~二.七メートル)に及び、田畑に多大な被害をもたらしたと伝えられています。

【題材風土資産】田植時の洪水


も

【も】
紋六の 数奇な運命 丁酉水

享保十四年(一七二九)七月十四日から北東の風が強く吹いて夕方から豪雨となり、十五日の明け方に袋川が溢れました。丁酉年の洪水であったので「丁酉水」、「とりどしの水」と呼ばれています。民家や若桜橋以下の橋はみな流失し、溺死者も多い希有の大洪水でした。鳥取藩の洪水の記録書『五水記』には、流された夫婦が漂着した村で無事生まれた紋六が、六十余歳になってまた洪水で流されるという数奇な運命を辿った話などが記されています。【題材風土資産】
丁酉年の洪水、流された紋六

せ

【せ】
千躰の 仏像伝説 千代川

千代川にまつわる伝説に、弘法大師が上流の山にある千の谷に一体ずつ仏像を安置しようと千躰の仏像を刻んでいたところ、九百九十九谷しかなかったために、仏像を全て川に流したという話が伝わっています。そのほか千代川の名前の由来には諸説あり、山賊退治の際に薬師如来の像を千体に刻んで成敗の成就を祈願し、願いが叶ったとする伝説や、「せんたに」が「せんだい」となったとする説などもあります。

【題材風土資産】千代川の語源


す

【す】
水害の 五水・因溢 物語

江戸藩政期に起きた水害は、『五水記』と『因溢物語』に記され、今日その様子を窺い知ることができます。『五水記』は五つそれぞれの水害の被害状況や洪水に直面した人々のエピソードなどを書き伝え、『因溢物語』は寛政七年(一七九五)の乙卯水について、著者自身の身辺に立脚して、溢れるような人間愛に貫き通されている内容が特徴的な記録書です。このように『五水記』、『因溢物語』は全国的にも類を見ることのない、大変貴重な資料です。【題材風土資産】五水記と因溢物語

ん

【ん】
袋川 蛇行河川 名のいわれ

『鳥府志』に、「鳥取の山下にあたる沼沢を埋地となさんとて、川脉を此方へ切込みたる時、数町の間いずれを川脉と云うこともなく、広き処を流通りしゆえ、袋川の名称はこれより起りたる」と書かれているように、袋川の名前の由来は、屈曲の激しい蛇行河川であることから名付けられたといわれています。特に袋川下流部一帯は低湿地の軟弱地盤のため流路が定まり難く、流路の蛇行は千代川水系で最も激しいものでした。

【題材風土資産】袋川の語源