安芸と周防の国境をめぐる紛争が解決するまで、両国とも政治的配慮によって、直接、小瀬川から農業用水を取り入れることはできませんでした。
その後、享和の和議(1801)が成立して、ようやく、取水できるようになりました。
ただし、当初は土のうを積み重ねるだけの幼稚な物で、村人総出で行わなければならない上に、一度洪水に見舞われると流され、依然として用水は不足がちでした。
 このため三分一源之丞は、天保年間、江戸で見たサイホンを参考にして改修工事を行いました。
 その構造は、小瀬川の川幅54間(現在の位置約100m)、この間に広さ5間(約9m)にわたって舗石を沈め、石の間に52本の臣材(支柱)を立て、流量による振動と水の圧力を防ぐため、全部の支柱に支木を施して、その支柱の間に堰板をはめ込んで水を止め、中央部の二間(約36m)は船通しとして利用するものでした。
 この構造により、堰止め、堰外しともわずか10人程度の労力で足りたということです。
また、堰の管理は、中央部より左岸側は大竹村、右岸側は和木村によって、両岸堤防止に小屋を作って資料を保管して行われました。
 天保年間につくられた中市堰は、長年にわたってその役目を果たしましたが、昭和26年のルース台風により流出しました。
その後、可動堰に改良されたものの老朽化が進み、その機能は著しく低下し、そのうえ川底も高くなっており、治水のうえで問題が生じてきました。
 このため、小瀬川の安全と塩害の防止、取水位の確保を目的とした新しい堰が計画され、平成5年に完成しました。
改築前の中市堰 現在の中市堰