旭川放水路事業の歴史

宇喜多秀家(1572〜1655)が、岡山城築城の際に天然の堀として利用した旭川は不自然な流路となっており、岡山城下は、洪水により度々甚大な被害に見舞われていました。
国立公文書館デジタルアーカイブ
<https://www.digital.archives.go.jp/>

現在の岡山市街地と堀の跡

川を岡山城の堀として利用したため、水衝部の石関町付近は出水の際、激流に見舞われ、城下が浸水することもあり、時として大きな被害も出ました。

江戸時代に
百間川の治水機能を考案し
築造した主な人物

百間川は、承応3年(1654)に発生した大洪水による岡山城下の壊滅的な被害を契機に、当時岡山藩の番頭であった熊沢蕃山が旭川の放水路として考案し、その考えを継いだ岡山藩の土木技術者である津田永忠が、「治水と開発」の両立を図る構想を立て、その実現のための様々な工夫を行いました。

旭川放水路の礎を造った

津田永忠つだ ながただ

1640〜1707年。池田光政(1609〜1682)、池田綱政(1638〜1714)の二代の藩主に仕えた岡山藩士。14歳のとき光政の小姓として仕え、光政の信任を得て、25歳で藩政の最高評議機関である評定所に列座し、以後、藩政の確立に奔走。土木建築の天才として知られた永忠は藩の地方行財政のトップともいえる「郡代」(ぐんだい)として、幸島新田、沖新田の干拓、百間川築堤、後楽園の造営、閑谷学校の建築から、藩政改革・財政再建と、めざましい業績を遺した。百間川築堤では承応3年(1654年)の大洪水を受け、治水と新田開発の両立を目指して、百間川の築堤・分流部における三つの荒手の整備(貞享の築造1687完成)、河口部での大水尾(遊水池)と水門群の築造を指揮した。
「津田永忠碑」(後楽園)

津田永忠の師匠

熊沢蕃山くまざわ ばんざん

1619〜1691年。陽明学者であり、池田藩の政治顧問として登用されていた。承応の大洪水の後、治水論「川除けの法」を考案する。蕃山の「川除けの法」は、洪水時に旭川の本川を上流の田畑に分流させることで城下の被害を軽減するものである。蕃山自身は承応の洪水の後、隠居しており、「川除けの法」は津田永忠が引き継いだ。

川除けの法

洪水時のみ堤防を越えて放水路へ流すことで、城下に到達する流量を減らす。

津田永忠が行った治水と新田開発の両立
人口増加に伴う
食料増産対策のための新田開発

旭川の水量が増すと
百間川へ分流される仕組みづくり

旭川の水量が増加

「一の荒手」を越流

「一の荒手」と「二の荒手」の間に
貯留され土砂を沈殿

さらに水量が増加

「二の荒手」、「三の荒手」を越えて
百間川に流入

荒手の効果

●洪水の流れる速度を抑制
●砂の流出を抑制

三段方式の荒手の断面イメージ

今なお残る百間川の治水施設群は、平成27年に(公社)土木学会選奨土木遺産に認定されています。