因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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袋川と用水



@石山用水(玉鉾用水)

石山用水石山用水

石山用水(石山堰)は袋川が奥部から平野部に流れ出す首根っこのところにあり、国府平野の南側半分をこの用水で灌漑しています。『在方資料』の記録から江戸時代に設けられたことが推定でき、文化6年(1809)の旱天時には、下流にある乙・樋(日)野(現在の宮下)両堰の関係者からの要請により袋川下流部へ水を送るため、上流に設けられた堰を三尺幅に切る「通し水(三尺落し)」が行われています。石山の名は堰の西側にある石山(124.1m)に由来し、また、石山の麓で堰を管理してきた玉鉾村に因んで玉鉾用水とも呼ばれています。


A京ヶ原用水

美歎水源京ヶ原用水


京ヶ原用水看板京ヶ原用水看板

袋川の上流には支流の一つとして扇ノ山を源とする上地川があります。明治期に入ると農業拡大の対象が山林原野や耕作不適地(限界地)の開墾に向けられるようになり、慶応年間(1865~67)頃に楠城の山本清次郎、上地の谷口与左衛門らの手によって京ヶ原の原野11町2反3畝8歩の土地が開墾されました。『空』とも呼ばれる京ヶ原の標高300~600mにある棚田20haに潅水するため、標高600~700mあたりの上地川上流部に取水口が設けられて井手が堀削され、急峻山腹に沿って約3.9kmを導水しているこの用水路のことを、地元の人は「京ヶ原井手」、開墾者の名を冠して「清次郎井手」、あるいは通称“きやあばらいで”とも呼んでいました。
上地川の上流部には、川を挟んで南北の山地に何本もの井手が設けられ、かつての開墾の跡をたどることができ、この地域には主なものだけでも6本の井手(京ヶ原・下京ヶ原・ダワホー・菅町・向井手・伊勢路)が残り、そのうち京ヶ原、下京ヶ原、菅町の3本は現在でも使用されています。


Bダワホー井手

『岩美郡史』によると、栃本村の森原利助と清水壽一郎が安政年中(1854~59)に栃本村字ダワホーの原野2町3反9畝26歩を京ヶ原より10年ほど早く開墾しています。ダワホーとは「大望」の訛りではないかといわれ、近くの木原に「大望井手」の名も残っています。ダワホーは袋川の支流大石川の合流地点にある栃本から川沿いに西へ約3kmほど入った大石の近くにあり、ダワホー新田には大石をはじめ栃本からも出作に来ていたようですが、かつての水田はスギ林に姿を変え、現在は溜め池とダワホー(ダーホー)井手の跡が当時の面影を残すのみとなりました。ダワホー井手の取水口は京ヶ原井手の取水口より直線距離にして約300m、標高差にして80mほど下流にあり、上地川の「山ノ神さん」(地名)で川を堰止め、折谷・牛野・菅野を通って延々15km、末端は楠城にまで達していたといわれています。