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日野川の紹介

特有の歴史、先人の知恵の活用

かんな流し

かんな流し

日野川は鳥取県の西部を貫流する山陰有数の大河で、その水源は鳥取県日野郡日南町三国山に発し、北東に流れ、日野郡江府町江尾において北西に方向を変えるとともに、数々の支川が合流し、さらに西からの野上川・法勝寺川を合わせ米子市皆生において日本海へ注いでいます。

本流の谷は一般に谷底平地の狭いV字谷をなし、高原面より200m前後も深いところがあります。しかし、支川との合流点に所々小盆地が開け、集落が発達しました。これらは、江戸時代の参勤交替路であった出雲往来に沿う宿場町、番所所在地として成立し、古来からたたら生産の中心でもあったことから、鉄の集積地として栄えた町でした。

小さな支流の出口に以外に大きな沖積錐や小扇状地が発達している所がありますが、これは高原上から流れ出たかんな流しの廃土が堆積したものです。

海岸線の変化

岸本より下流に広がる日野川扇状地では、日野川は洪水ごとに河道を転々と変えてきました。伯耆誌によれば元禄15年(1702年)の洪水で皆生を作ったといわれています。いつ頃堤防が築かれたかは明らかではありませんが、延宝元年(1673年)に「堤防が切れた」との記録が残っており、この頃には部分的にしろ堤防と呼ばれるものが存在していたと思われます。現在の流路は明治19年の水害後に川幅を拡張し、護岸を施しました。

かんな流しの盛況は当然のことながら下流へ大量の濁流と流砂を排出する結果をもたらし、下流の農作に害を与え、また河床を高めて洪水の被害を大きくするものでした。したがって、上流鉄山地帯と下流農作地帯との利害が相対立し、採鉄縮小の令(文政6年)を出したり、採鉄を年中稼行から農業に支障が少ない秋の彼岸から翌年の春の彼岸までに制限したりして紛争の調停に藩が乗り出しました。

明治維新以降は近代工業の発展により、鉄需要の飛躍的増大をみましたが、砂鉄はコスト高のため洋鉄(輸入鋼鉄)の圧迫を受けて、明治22年(1889年)頃を頂点として消失の過程をたどりました。このため、皆生海岸は大正4年までは砂浜が広がっていましたが、海岸浸食により、皆生温泉付近まで海岸線が後退しました。

皆生温泉付近の海岸線の変化

皆生温泉付近の海岸線の変化