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戦国・江戸時代になると、本格的な治水工事が各地で始まり、堤防がつくられだしました。これと同時に、田畑への水を川からとるために、堤防の一部に水の取り口をつくり、水を流すための用水路(ようすいろ)がつくられ始めました。
千代川で、よく知られている用水路には、千代川の西側(がわ)の山ぞいに流れる大井手(おおいで)用水と東側の平野を流れる大口(おおぐち)用水があります。 |
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千代川下流(かりゅう)の西側は水が少なく、日照(ひで)りが続くとすぐに干(かん)ばつ(水がなく土地がからからにかわくこと)となり、水不足でこまっていました。1600年頃、鹿野藩(しかのはん)の城主(じょうしゅ)亀井茲矩(これのり)は、農地へ水を引くために、加路村(かろむら)[今の加露町(かろちょう)]の一部と、鳥取藩の河原村(かわはらむら)[今の河原町]の土地を交かんしました。そして取り口を河原村につくり、大井手用水をつくりました。 |
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昔の取り口(写真は大正のはじめ) |
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現在の取り口(河原町渡一木) |
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亀井公(かめいこう)
(津和野・永明寺所蔵)
(つわの・えいめいじしょぞう) |
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