『因幡誌』には、神護という名は大茅郷を領地した松島神護兵衛からとったという説は間違いであり、最初から神護という地名があり松島氏がその地名をとって神護兵衛としたと書かれています。『因伯地名考』には、かつてはこのあたり一帯を大草郷といい、郷の大半は菅野大明神の社領だったことから、社領に生活する人民、つまり「神戸」が「じんご」になり「かんご」に変ったのではないかとあり、鳥取の「神子谷」が「かごだに」になったように、神社に仕える女性、すなわち「神子」が「かんご」と読まれたことからとも考えられています。『鳥取藩史』には旧名として「神後」と明記されていますが、元禄以後、今の字に改められたと考えられています。 |