因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
HOME >> 鳥取城築城と袋川

二回目の鳥取城攻略


吉川経家の入城

そこで吉川元春は天正9年(1581)正月、石見国福光城主・吉川経安の嫡男、吉川経家を鳥取城の城将に任じ、経家は3月18日に入城しました。直ちに籠城の準備に取りかかりましたが、時すでに遅く、兵糧米の蓄えも不十分のまま、7月には集結した羽柴秀吉の大軍3万余騎に包囲されました。これを迎える鳥取城防衛軍方は、久松山頂上の本丸に城主・吉川経家、山麓の二ノ丸と三ノ丸には中村春続・森下道誉など山名の遺臣が陣を敷き、出城の雁金城に塩冶周防、丸山城には奈佐日本之助、山県九左衛門、佐々木三郎左衛門らを配し、城兵は百姓・町人を合わせて総勢4000名ほどであったと伝えられています。


羽柴秀吉の久松山包囲作戦と兵糧攻め

城兵の激しい抵抗を予想した羽柴秀吉は、厳重な包囲網を敷いて兵糧攻めの作戦をとりました。約10丁(1090m)ごとに櫓を設け、櫓には駿馬の武士20人、弓の射手100人、鉄砲100挺ずつ配置し、約5丁(545m)ごとに番所を置き、番所では番士5、60人ずつ入れ替わり夜番と廻り番をしたと『太閤記』に記されています。これらの櫓と番所の前方には杭を打ち並べて柵を造り、湊川(袋川)には網を張って、鳥取城防衛軍を一歩も外へ出られないようにしました。包囲線は全長約12kmにもおよんだといわれています。


雁金城の落城と補給路の断絶

吉川経家は吉川元春に兵糧の補給を要請しますが、伯耆の南条元続に阻まれ、毛利輝元、小早川隆景も美作・備中の戦いで経家に援軍を送ることが出来ませんでした。包囲された状態の続く中、鳥取城内では兵糧が次第に尽きて木の根、草の根などありとあらゆるものを食い尽くす様相となった頃、秀吉方の宮部善祥軍が天徳寺から円護寺に越える峠である“道祖のたわ”を強襲したため、本城と雁金城の連絡路が切断され、重要な補給路であった湊川(袋川)水路も失ってしまいました。


天正9年(1581)10月25日開城、吉川経家自決

羽柴秀吉は堀尾吉晴を使者にたて、開城を勧告しました。鳥取城籠城から4ヶ月、毛利からの援軍もなく兵糧もなくなり飢餓状態となった城兵を救うため、経家は自らの命と引き替えに城兵の助命を条件として開城を申し入れ、降服しました。秀吉は浅野長政を遣わして酒肴を贈り籠城の労を慰め、鳥取城では決別の宴が開かれ、経家は翌10月25日に開城して久松山麓真教寺に入り、自刃しました。中村春続や森下道誉らもこれに従い自刃し、鳥取城を巡る攻防戦は終焉を迎えました。