昔の峠は、現在の峠の手前を左に入った所にあり、急な坂を下って銀山村に至りましたが、峠道は急な上に幅も狭かったので、雨滝部落から十王峠を越えて洗井までの一里余りの工事が明治23~24年に行われました。その頃の一日の労働賃金は八銭か九銭の上、他所者の親方に使われるので人使いが荒く重労働であったといわれます。十王峠は土質が悪く雨の多い所なので、難工事であり、損工事ともなれば親方は人夫賃を払わずに姿を消す者もあったそうです。当時の流行歌には「ドッコイ道路の骨うずき 一文持たずの親方に コツカになる程使われて......」ともあります。難工事の十王峠の切割が完成したところ、峠の少し手前の地蔵尊が古い峠に淋しく取り残されていたので、新しい道路ができた2、3年後に現在の所に安置されました。地蔵の傍には2本の松が植えられていましたが、小さいときに切られてしまい一本松となり、この松も樹齢80を超えました。 |