因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
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修験との関係を示す



十王峠

昔の峠は、現在の峠の手前を左に入った所にあり、急な坂を下って銀山村に至りましたが、峠道は急な上に幅も狭かったので、雨滝部落から十王峠を越えて洗井までの一里余りの工事が明治23~24年に行われました。その頃の一日の労働賃金は八銭か九銭の上、他所者の親方に使われるので人使いが荒く重労働であったといわれます。十王峠は土質が悪く雨の多い所なので、難工事であり、損工事ともなれば親方は人夫賃を払わずに姿を消す者もあったそうです。当時の流行歌には「ドッコイ道路の骨うずき 一文持たずの親方に コツカになる程使われて......」ともあります。難工事の十王峠の切割が完成したところ、峠の少し手前の地蔵尊が古い峠に淋しく取り残されていたので、新しい道路ができた2、3年後に現在の所に安置されました。地蔵の傍には2本の松が植えられていましたが、小さいときに切られてしまい一本松となり、この松も樹齢80を超えました。


十王図(殿)

因幡西国三十三ヶ所観音霊場十九番札所の殿の観音堂の堂内に、十王図(冥界地獄図)がありました。この世でおかした罪を裁く閻魔大王などを描いた十王像は十王峠の由緒を示すが如くといわれています。


不動坂(拾石)

殿から約2kmいくと拾石があり、その手前の神護への道の分岐点のすぐ先に狭い切り通しがあります。かつての拾石神社の鳥居と拾石発電所の間を通る坂道のことで、不動坂または十石峠とも呼ばれた法美往来最大の難所でした。この坂の頂上付近には昔のままの石垣や屋敷跡、「大乗妙典六十六部日本廻国供養塔」等の高さ120cm前後の石碑が3基残っています。