主な災害
昭和47年(1972)7月9日から降り始めた梅雨前線の影響による強い雨は、断続的に12日まで続いた。この間10日の12時頃から強い雨域が南下し、12日の1時頃まで局地的で断続的な強い降雨状況に陥った。江の川上流域においては、特に11日に集中して強雨が降り、0時〜6時、18時〜24時の 6時間平均降雨強度は20㎜程度を記録した。時間雨量は、西城川油木観測所で11日 16時〜17時に46㎜を記録したのを始め、三次、千代田で40㎜以上の記録となった。また、9日9時〜12日9時までの3日間総雨量は千代田420㎜、三次430㎜、西城430㎜、津名350㎜で、江の川(本川)、および西城川上流部で多くの降雨量を記録している。
7月10日〜12日の江の川上流域におる出水状況は、ピークが繰り返す2山型の性状を示している。
いずれにしても記録的な豪雨のため、江の川(本川)・馬洗川・西城川ともに11日午前0時頃から水位が上昇を始め、最初のピーク時にほとんどの地点で警戒水位を超えることとなり、本川の下土師で11日5時、吉田4時、粟屋4時頃、尾関山4時30分頃、また支流では馬洗川南畑敷が4時30分頃、西城川三次で10日23時頃には突破している。警戒水位を突破した後、下土師、吉田、尾関山、三次では計画高水位をも越えることとなり、下土師、吉田、尾関山では11日8時頃、三次では7時頃であった。
下土師、吉田では、その後水位は下降してきたが、他の地点はさらに上昇を続け、最初(1山め)の出水における各地点の最高水位は、下土師3.00m、吉田4.76m、粟屋6.80m、尾関山11.95m、また支流では馬洗川南畑敷が6.29m、西城川三次5.33mとなった。水位はその後下降するかと思われたが、11日18時頃再び上昇に転じ、南畑敷を除く地点が軒並み前回を上回る水位を記録した。第2回出水(2山め)における計画高水位突破時刻は、下土師で23時、吉田12日0時、粟屋1時頃、尾関山0時頃、西城川三次で11日22時頃となっている。
2回の出水における最終到達水位は、下土師4.00m(12日2時)、吉田5.80m(12日3時30分)、粟屋8.33m(痕跡による推定:時刻不定)、南畑敷6.40m(痕跡による推定は6.52m:11日11時30分)、尾関山13.20m(12日2時30分)、三次6.60m(痕跡による推定は6.90m:12日2時頃)となり、従来の記録を大幅に上回るものとなった。
このため、流域の被害は甚大となり、三川が合流する三次市における被害は、馬洗川左岸十日市町地区の2箇所で堤防が溢水破堤、右岸の三次地区他各所で堤防溢水という状況となり、床上浸水以上の被災世帯は3,464、被災者概数は16,871名という記録となった。