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「昔の川は、もっと暴れ者だったからなあ」 「みんな知らず知らず川に育てられてきたんだね」 「鳥や虫や魚が元気なところでは人も元気だよ」
「いまも、昔も人間は偉いことをするもんだな」 「あの庭の美しさを支えているのも川なんだね」 「まったく、川のある暮らしって、いいもんだなあ」
「みんな知らず知らず川に育てられてきたんだね」―この川こそ人とともに生きる母なる川
岡山市水道局三野浄水場取水塔

「利水」―水の流れを整え、上手に利用する
旭川の水利用の歴史は古く、特に江戸時代から盛んになった干拓地への農業用水の供給に重要な役割を担ってきました。いまでは、農業用水のほか、上水道、発電、工業用水として利用されており、さらに最近では、百間川の水質改善のための浄化用水としても利用されるようになりました。農業用水としては、昭和29年3月に完成した合同堰(ごうどうせき)で1秒間約16.2立方m(小学校のプールに約20秒で水が溜められる量 )が取水され、さまざまに張り巡らされた用水路により、2,300haの農地への水の供給が続いています。上水道の給水人口は約62万人。岡山市の場合、上水道の水源の約90%が旭川の水です。全国で8番目という近代的上水道が供給を始めたのは明治38年(1905)のこと。また、旭川水系での水力発電の最大出力は10万7,500kW(約1万世帯分の1日の消費電力)に及びます。ほかにも、工業用水としては、クラレ用水などの取水設備があります。
三野浄水場にある水道記念館―取水から給水までの水道事業の流れがよくわかる
■合同堰に関係する用水路

貴重な水を運ぶ用水路(後楽園用水)

舟運の歴史
江戸時代の旭川は、高瀬舟(たかせぶね)による舟運(しゅううん)が盛んでした。米、大豆、木材、木炭、鉄など内陸の産物が舟で川を下り、水産物や塩、遠方からの物品が川を上り、各地へと運ばれました。大正時代まで京橋あたりでは、これらの品物を扱う市が立ち、周囲には問屋や商店が数多く軒を連ねていました。やがて石炭が運ばれるようになって船が大型化すると、荷揚げ場所は三蟠港(さんばんこう)に移り、ここから鉄道やトラックで運ばれるようになり、舟運は衰退しました。旭川の下流左岸に見られるケレップ水制はオランダ人ムルデルが考案したもので、昭和10年ごろに水深が浅い河口部の流れを岡山市の中心地側に寄せて水深を確保し、流路の安定化を図るためにつくられました。

空から見るケレップ水制

昭和5年当時の京橋船着場の風景

ときには渇水の心配も
台風や集中豪雨のときを除いて、旭川の流況は比較的安定しています。しかし、ときには渇水になり、取水が制限されることもあります。近年では平成6年と14年。6年の場合は8月から9月にかけての45日間、上水道20%、工業用水30%、農業用水50%の取水が制限されました。このとき岡山市で送水圧を16.7%落とす第1次給水制限が初めて実施されたほか、県営プールも休業。

渇水状況を伝える新聞紙面
左、右:山陽新聞・平成6年8月17日、18日
下:中国新聞・平成6年8月17日
 
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