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「昔の川は、もっと暴れ者だったからなあ」 「みんな知らず知らず川に育てられてきたんだね」 「鳥や虫や魚が元気なところでは人も元気だよ」
「いまも、昔も人間は偉いことをするもんだな」 「あの庭の美しさを支えているのも川なんだね」 「まったく、川のある暮らしって、いいもんだなあ」
「いまも、昔も人間は偉いことをするもんだな」―百間川は江戸時代に完成した大放水路
旭川の歴史を振り返るとき、どうしても人と自然の関係に行き当たります。もともと旭川は水害の多い川でした。天正18年(1590)から8年をかけておこなわれた岡山城改築のとき、宇喜多秀家(うきたひでいえ)は城を守る堀として旭川を利用しました。秀家の旭川改修計画では、旭川の流路を城の北面 に衝突させて東向きにし、そのあと南向きに急激に方向転換させるというものでした。上流山林の荒廃や砂鉄採取の土砂が河底に堆積することなどもあって、この川の付け替えが洪水を多発させる原因になったのです。
江戸時代で最も被害が大きかった洪水は承応3年(1654)に起こっています。岡山城下の死者156人、破損家屋1,455軒。藩主の池田光政(いけだみつまさ)は「われら一代の大難なり」と悲嘆しました。そして、城下の復旧とともに治水対策に取り組んだのです。このとき、かねてから治水問題に心を痛めていた岡山藩の番頭格、陽明学者の熊沢蕃山(くまざわばんざん)は「川除の法」を考案しました。
その後、岡山藩の郡代となった津田永忠(つだながただ)は、その技術論の積極面 を全面的に、踏襲するとともに、上道郡の水害防御と百間川下流の新田開発のため、百間川を築きました。正確な完成年は不明ですが、この大放水路の完成は貞享3年(1686)のことと伝えられています。延長は12.9km。このとき、津田永忠は、旭川から百間川への入口に「荒手(あらて)」と呼ばれる越流堤(えつりゅうてい)を築いたのです。それは、流れの勢いを弱める工夫でした。こうして放水路としての百間川はみごとに機能することとなりました。なお、 二の荒手の長さが百間(約180m)あったため、百間川と呼ばれるようになったとのことです。
>>マップを見る 百間川分流部上空から見た下流域の風景


■城下を守る百間川
百間川の荒手のしくみ

百間川が生まれ変わろうとしている
誕生してから300年。昭和9年の室戸台風による洪水をきっかけに、河道の整備、水門の改築や陸閘(りっこう)の改修が進み、百間川は岡山市全域を守る放水路として生まれ変わりつつあります。一方で、大都市のなかの自然環境として市民の関心も高く、都市の自然を守るという新しい形の保護運動などが地域の団体や学校などによって広がりつつあります。
陸閘

改修前
 
大曲付近
貧弱な堤防(海吉地区)
用水の樋門
百間川を横断する道路は 洪水のときは通れない(昭和47年7月)
 
改修後
 
河道を整備しました
堤防を高く丈夫にしました
古い樋門を新しくしました
洪水時も安心して通れる橋をつくりました

百間川改修前、二の荒手下流の地域は、洪水のたびに水害に悩まされていました。そのため、この地域では石垣を旧堤防の高さ程度にまで積みあげ、その上に家を建てるという洪水から身を守る工夫が行われてきました。一部の家屋は現在も残っており、当時の洪水の脅威(きょうい)と人々の苦労がうかがい知れます。
現在も残る家屋の石垣

百間川やその周辺で遺跡の発掘調査が始まったのは、昭和25年のことでした。それから延々と続けられた調査の結果 、このあたりではいまから5,000年から2,300年前の縄文時代後期から人の生活が始まっていることがわかりました。
百間川沢田遺跡

放水路としての役割を忠実に守る百間川は、ふだんはほとんど水の流れのない川です。その空間を利用してグラウンドや公園など多くの施設が整備され、スポーツやレクリエーションのための格好の舞台となっています。

市民レガッタ
高水敷のテニスコート
 
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