因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
HOME >> 袋川の三変遷 鳥取城下の整備と河道改修物語

第一期改修


池田長吉による付け替え

新世末期(5〜1万年前)の一時期には海水が増加して、前述の通り現在の陸地は沈降海岸の形態となり、古鳥取湾とも呼ばれる大湾入がつくられました。当時は沖積層の堆積もなかったので平野もできておらず、湾入はかなりの深さがあったのではないかと考えられています。湾奥附近には現在鳥取平野に散在する面影山や大呂山、また砂丘の一ツ山・二ツ山・馬ノ背・伴山、賀露町背後の岩山、さらにスクモ山など湾の外側にある島々により、湾内には小さな島が多く点在していたと考えられます。中国の山地と新しい火山に降り注ぐ雨が洪水となって、侵食を激しくおこない、花崗岩・安山岩の山を削って礫・砂・土を大量に日本海に放出しました。大礫は陸地にとどまり、小轢は湾奥附近に、砂は湾口から湾外に厚く堆積し、泥土は濁水となって遠く沖合に運び去られたことにより、海岸部には泥を含まない美しい砂が堆積しました。砂丘を形成する海底砂はこの頃から存在していたものと考えられています。


池田長吉

元亀元年(1570)犬山城に生まれ、兄の姫路城主・池田輝政と共に羽柴秀吉に仕えました。天正10年(1582)6月に秀吉の養子となって羽柴姓を称し、その後近江国蓮華寺、佐倉あわせて3万石を領しました。慶長5年(1600)徳川家康の上杉景勝征伐に従い、関ケ原の戦いでは輝政と共に渡・新加納・岐阜を攻め、さらに近江水口に長束大蔵少輔家正を攻め滅ぼしました。この時家康は長束の蓄えていた金銀財宝を長吉に与えたといわれています。関ケ原の戦功で鳥取城に封ぜられ、因幡国のうち巨濃(岩升)・邑美・法美・八上の4郡6万石を領有しました。