因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
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第三期改修


千代川改修工事に伴う付け替え

大正12年の洪水に端を発し着手された大正15年から昭和9年に及んだ大工事によって、鳥取市秋里付近で大きく蛇行していた千代川は、海へ直進する新しい河川に改修されました。あわせて大杙付近から山陰線千代川鉄橋付近で、千代川に合流する放水路、新袋川が新設されました。これにより以前の流路のうち大杙から北を旧袋川と呼ぶようになりました。さらに平成18年4月より旧袋川はもとの呼称の袋川へ、大杙から西進する袋川は新袋川へと呼称が変更されました。


いと場

 袋川への降り口のことをいいます。袋川の土手から水辺に通じる石段の通路を設けたもので、20余りのいと場が作られていました。『鳥府志』では「為登」という字が当てられ、鳥取、但馬、丹後の方言で、川べりの洗濯場を意味するといわれています。
  洗い物や水汲みのほか、袋川では生活に欠かせない水路として船が利用されていたので、人の乗り降り、荷物の積み降ろしの場としても使われてきました。藩の米蔵に近い場所では特に大きく作られていました。また、いと場以外のところを全て竹藪としたのは、洪水時の越流を防ぐとともに、敵の来襲に備えた防御線を兼ねるためでした。
  茶町のいと場は市街地にも近く、足場もよく整っていたので一番よく利用され、屋形船での川遊びや、賀露港とを結ぶ巡航船も発着していました。賀露港からは海産物を積んだ行商の人々が往復し、茶町からは日用雑貨が積まれ、智頭方面からの木材も筏に組まれて千代川を下り、河口からは人力で袋川をさかのぼって茶町近辺のいと場から陸揚げされたため、材木町、鋳物師町辺りが賑わい、問屋や旅館、料理屋などが多く立ち並んでいました。