因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
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第二期改修


元和3年(1617)、池田光政は42万石の姫路より6万石であった鳥取に移封されたため、因幡・伯耆合わせて32万石の所領を治めるためには城下町を大幅に拡大する必要がありました。そこで、吉方稲平のドント(現・修立小学校の前あたり)から今の玄好町、材木町の境にある出合橋にかけて14〜15丁(1.6km)の間、幅7間(12.6m)、深さ3間半(6.3m)の開削を行い、池田長吉の掘った川の外側に新しく川の流れを変えました。池田長吉の作った柳堤より内側は侍屋敷、外側は町人町とし、その中にもまた侍屋敷と寺院を配置しました。新川堀削工事は農業の妨げにならないように1・2月の農閑期に限って行われ、また、掘り出されたおびただしい土で土手(堤防)が築かれ、それに竹を植えて外郭の要害としました。

付替前
付替@
付替A
現代

池田光政

大伴家持歌碑 池田光政

姫路藩42万石を領する姫路藩主・池田利隆の嫡男として慶長14年(1609)岡山城に生まれました。元和2年(1616)利隆の死により8歳で姫路藩主となりましたが、翌年3月、播磨は中国の要地と幼少を理由に因幡・伯耆両国32万石へ転封となり、元和3年(1617)から寛永9年(1632)までの16年間在城しました。光政が初めて鳥取城に入ったのは翌4年3月の10歳の時で、寛永9年に岡山へ転封するまで7回帰国しています。江戸時代初期の名君として名高い人でもありますが、この時期の藩政は家老を中心に執行されており、多くの治績をあげたのは岡山城主時代といわれています。お国替えで鳥取城主となった従弟・池田光仲の後見的存在でもありました。


薬研堀

宇倍神社 薬研堀

薬研堀とは、薬研の形、すなわちV字形になった底の狭い堀のことをいいます。
池田光政の河身変更によって寺町あたりから江崎方面に切り込んで流れた袋川が遮断され、この古川筋を薬研堀と呼ぶようになりました。なぜ薬研堀といわれるようになったのか、『鳥府志』では、川筋の跡に左右から次第に砂が流れ込むことにより、真ん中の筋のみが深くなって、薬研の形に似ていたことから呼ばれ始めたのではないかと考察しています。
また、その後、池田長吉が掘った若桜町惣門から柳蔵までの堀も薬研堀と呼ばれるようになり、この堀の跡は、昭和29年頃にこの工区の都市計画が完成するまでは、西町あたりの所々に残っていました。