因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
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民話・伝説 1



1、大庄屋が買った馬<楠城>

楠城村の田渕甚左衛門は、宝永2年(1705)鳥取藩主より大庄屋に任ぜられました。この大庄屋の自慢の一つは良い馬を持っていることでしたが、馬が年をとったので若い馬と取り換えることにし、伯耆の大山の馬市に出掛けました。新しく馬を買って帰ってきたところ、それは売った自分の馬でした。


2、神護村の正月の昔話<神護>

雪深い片田舎の冬ごもりはよその村との関わりもなく、神護村では毎日をのんびりと過ごしていました。そんなある日、明日は正月と村人は連れだって鳥取へ買物に出かける途中、神垣の村を通ると数人揃って各家を次々に回っている姿を見ました。目礼かと思っていたところ、年頭回りをしていることを聞き、神護の暦はいつの間にか一日遅れていたことに気がつきました。


3、狂歌の徳伝説<栃本>

高麗水をはじめとする水害で年貢が滞った時、栃本村にいた知恵のある老人が一首したため代官に差し出しました。池田備中守長吉はそれを読み、老人の狂歌に感じて年貢を免じるよう代官に言い渡しました。


4、子ども好きなお地蔵様の伝説<茅ん堂>

お地蔵様は村の子どもたちと遊ぶのが大好きでした。夏になると、堂の前の小川で一緒に水浴びを楽しんでいました。お地蔵様は子どもたちが小川の上手まで運んで流してくれるのが大好きでした。鶏冠尾峠を越えた殿村(外邑)にいる仲良しのお地蔵様は田んぼの畦道に一人ぼっちで立っていたので、よく一緒に遊んでいました。外邑が火事に見舞われたとき、茅ん堂のお地蔵様は峠を越えて仲良しのお地蔵様を助けに行き、必死に消火につとめました。


5、だいじょうごんの坂<雨滝>

雨滝集落から雨滝に行く途中にある急な坂道のことを、地元では「だいじょうごんの坂」と呼んでいます。「だいじょうごん」とは暦の吉凶を司る八神の大将軍のことで、太白(金星)の精であり、この神の方向は3年塞がるとされて忌み嫌われていたため、暦学の方位と急な坂道の地形を重ねて、この坂より先への立ち入りを避けていました。


6、亀が渕伝説<筥滝>

雨滝村に亀という心の優しい男の子がいました。両親を早くに亡くし、心の悪い義理父に何一つ不平を言わずに働いていましたが、ある年の春、二人が渕の横の山で薪を伐っていたところ、亀が鉈を取り落とし、雪解け水で水かさが増した下の渕に沈んでしまいました。義理父に鉈を拾ってくるように命じられた亀は渕に入りましたが、それきり上がってくることはなく、この滝壺のそばに来ると亀の悲しげな声が聞こえるようになりました。


7、シラジラババアのたたり伝説<七曲り城址>

雨滝に向かって左の険阻な山を城坂山といい、この山上に七曲り城がありました。羽柴秀吉が天正8年(1580)11月にこの城を攻め、寒気と食糧不足のため力尽きた武将以下全員が28日に自決しました。その時の城主の年老いた母親が怨霊となって、毎年11月28日には大嵐や大吹雪を起こしたり、山人に大きな石を転がして害を加えるなどの事故があったため、この日は天気が良くても山の近くに出掛ける者はなく、この怨霊を「シラジラババア」といって恐れていました。


8、羽柴秀吉の貂の皮渕伝説<雨滝川>

羽柴秀吉が七曲り城攻めを目前にして、雨滝川(袋川)中の大きくて平らな岩上で休憩していたとき、秘蔵の貂の皮袋に入れた南蛮渡来の香を取り出そうとして、深い渕の中に落としてしまいました。その後何年もこの渕の上を通ると良い香りがし、この渕を貂の皮渕と呼ぶようになりました。


9、桜田門の扉に使われた大栃の木伝説<雨滝の木材>

雨滝の深山は原始林のように栃やブナ、桜、朴などの大木が茂り、その中でも一段と大きな栃の木がありました。城普請の際に直径が4m以上あったといわれるこの木が切り出され、大雨の時に雨滝川(袋川)を流して城に運びましたが、城普請には使わず、江戸城の内桜田門(桔梗の門)の扉に使われたということです。


10、蛇山城の伝説<雨滝の愛宕山>

雨滝の愛宕神社が鎮座する山には戦国時代に山崎の毛利氏の出城があり、山の名を蛇山といったので蛇山城と呼ばれました。城は南東に面して建っていたらしく、下の田んぼの名を浄禅(城前)、山すその道を浄禅山川、道の下を流れている川を山川(ホーキ)、山川と対照して広い田んぼの中に走る真っ直ぐな道を畷といいました。