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安徳天皇伝説


全国の安徳天皇伝説地の中での位置付け

安徳天皇は、治承2年(1178)に高倉天皇の第1皇子として生まれ、母は平清盛の娘・建礼門院徳子、名を言仁といい、治承4年(1180)に2歳で即位しました。寿永2年(1183)、源義仲の入京の際に平氏に擁せられて西海に落ち、文治元年(1185)3月24日長門壇ノ浦での戦いにおいて平家軍の敗北が強くなると、祖母の平時子(二位の尼)に抱かれて三種の神器と平家一門とともに入水しました。山口県下関市赤間神宮隣の阿弥陀寺陵が陵墓とされていますが、安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、平氏の残党と地方に落ち延びたとする伝説が各地に残されています。


三伝承地

御陵山
この山には安徳天皇の陵墓参考地に指定されている「岡益の石堂」があることから御陵のある山としてこの名がつき、また「石堂の森」とも呼ばれています。  
 
新井の石舟
石舟古墳は直径約10mの円墳と推定され、横穴石室の玄室に凝灰岩をくり貫いた家形石棺が安置されています。石棺の蓋は2枚ありましたが現在は1枚だけ乗せられており、上の方が扁平な屋根型に加工され、横には方形の把手が造られています。
二位の尼は文治4年(1188)の秋、「泉が谷」という所に大きな石舟を造らせて自分の棺と定めました。そして、建久3年(1192)8月上旬病に伏し、医者を拒み薬も食事もとらずただ一心に念仏を唱えていましたが、帝が崩御してから満5年と2日過ぎた8月15日、あとを追うかのように逝かれました。こうして亡骸は遺言の通り泉が谷の石舟に葬られ、二位の尼の墓所があることからこの地を「二位」といいましたが、世に隠れて過ごした人の名前を表に出すことをはばかり、その後同じ訓の「新井」へ改められました。

崩御ヶ平 
安徳天皇が荒舟奥のこの地で崩御されたことから名付けられました。