和泉式部の誕生
治安(1021)の頃、大江貞基が因幡国守となりこの観音を深く信仰しました。そして祈願の子どもが生まれ、この女の子が和歌の聞え高い和泉式部です。
尊像の霊験
元暦(1184)の頃、源平の戦いによってこの寺の伽藍も坊舎もことごとく焼けてしまいましたが、この尊像が本堂の西側の“薬師ヶ平”の大木の根元に移っていました。国内外の人がお参りに訪れて難病苦悩を祈り福寿増長を願い、一つとして叶わないものはなかったほどでした。
御慈悲の巨石
永享年中(1439~40)に流行病で多くの人が亡くなる中、観音を信仰する貧しい娘は元気なままで、観音の導きによって結婚することもでき、子宝にも恵まれました。ある日袋川の水が溢れて橋もろとも流されましたが、身体が岸へ近づいて大石に流れ寄せられ、岸に這い上がることができました。後ろを振り返ると大石は消えていました。
海の守り
但馬の船頭の多くが観音を信仰し、暴風雨となって生死紙一重の危険に出会った時にひたむきに名号を唱え続けると、いつでも波は静まり船はいつの間にか港へ入っていたといいます。
大蛇の慈悲心
智頭郡で木地産業をする者が足をすべらせて谷底へ落ちてしまったところ、気がついてみると大蛇の首にまたがっていました。大蛇は木地屋を首に乗せたまま元の所へ戻してくれ、菩薩の光明は大蛇の体にまで透っていました。
盗賊のざんげ
巡礼一人が夕方、普門品(観音菩薩が衆生済度の道をのべられた仏典)唱えながら但馬の方へむけて十王峠を越していた時、盗賊に襲われ、普門品を盾にして立ち向かうと、盗賊は血を吐いて倒れてしまいました。やがてこの盗賊達は懺悔して発心し、巡礼にしたがって観音信仰に入っていきました。
情けの道連れ
庁の百姓が主の夫役となって江戸勤番となり、悪い遊びを覚えて座敷牢に入れられてしまいました。許された後に故郷の観音を思い出し一心に普門品を暗じていると、突然見知らぬ僧があらわれて庁の自分の家の前まで導いてくれました。
観音のみちびき
享保14年(1729)美歎の高名な百姓伝兵衛は男を鳥取へ使いに出しました。日が暮れた時、身の丈が2mもある山伏があらわれてその男を拉致しようとしたところ、谷の観音の使いだと言う若い女性があらわれ、髪の元結いを抜いて男の手に握らせて歩き出しました。しばらくすると男は目がくらみ、村の入口、助五郎の家の前で気絶してしまい、物音に驚いた助五郎の家の老が介抱して、男はやっと正気にかえりました。主人の伝兵衛は観音にお礼に参り、「宝前のワニ」 にして献上しました。
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