因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
HOME >> 鳥取城築城と袋川

鳥取藩の藩祖・池田家

寛永9年(1632)から明治2年(1869)の廃藩置県までの約240年間、ほぼ江戸時代全期を通じて鳥取城主につき、因幡・伯耆32万石を治めた池田光仲とその子孫12代を鳥取(因州)池田家と呼び、鳥取藩(因州藩)の藩祖としています。

池田光仲

大伴家持歌碑 池田光仲
拡大

池田光仲は寛永7年(1630)6月18日岡山城主池田忠雄の嫡子として江戸に生まれ、幼名を勝五郎といい、父の忠雄がすぐに病死したことにより2歳で家督を継ぎましたが、幕府は因伯32万石への転封を命じました。9歳で元服して光仲と改名し、12歳の時に百日就国で一度帰城しています。国政は家老の荒尾成利を中心として行われていましたが、紀伊大納言徳川頼宣の娘・茶々姫と結婚して3年後、慶安元年(1648)に19歳で正式に帰国して自から藩政を執行するようになります。藩主親政へと移行させる間、老臣荒尾成利と衝突を繰り返し、ついに承応元年(1652)成利の独断的行為十余条をあげてその責を問い、成利の家老職を罷免しました。隠居するまでの約30年間は全国的にも諸制度が確立した幕藩体制の確立期でもあり、この事件を境に光仲の親政は確立し、二男仲澄を分家して家の永続の基礎などをつくりました。また、光仲は徳川家康の曾孫にあたるため池田家は徳川幕府と深い関係にあり、藩主の名前は時の徳川将軍の名前から一字をもらってつけられています。(例:3代将軍徳川家光→初代藩主池田光仲)


池田家の墓所

大伴家持歌碑 池田家墓所
拡大

元禄6年(1693)7月7日藩主池田光仲が鳥取城にて64歳で死去し、選定の結果墓所が奥谷に定められました。以後この地が池田家代々の廟所となり、江戸時代における大名家の葬法や階層別による墓制を伝える極めて貴重な遺跡であるとして、昭和45年に県の指定となり、現在では国の史跡に指定されています。


亀趺

墓碑は、玉石垣をめぐらした土台に三段に重ねた台石を据え、「亀趺(きふ)」と呼ばれる神獣を象った台石を載せ、その上に用瀬から運ばれた石の上の部分を丸く加工した平たい四角柱の碑が建てられています。高さはおよそ4.6mにも及び、「亀趺円頭の墓碑」とも呼ばれています。

初代光仲公の墓碑
第2代綱清公の墓碑
初代光仲公の墓碑
第2代綱清公の墓碑
第3代吉泰公の亀趺
第6代治道公の亀趺

松原城

池田家墓所への参道は、当時は両側に松が植えられ美しい並木道であったため、松原と呼んでいたたと伝えられています。


仁風閣

仁風閣 仁風閣
拡大

明治40年5月、時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓に際してのご宿として、もと鳥取領主池田仲博侯爵によって扇御殿跡に建てられました。設計は赤坂離宮の設計家として有名な宮廷建築家・片山東熊博士によるものと伝えられ、工部大学校での後輩にあたる鳥取市出身の建築家・橋本平蔵が補佐し、地元の工匠・浜田芳蔵が施工にあたったものであり、フレンチルネサンス様式を基調とする木造二階建ての本格的洋風建築で、中国地方屈指の明治建築として著名です。