池田光仲は寛永7年(1630)6月18日岡山城主池田忠雄の嫡子として江戸に生まれ、幼名を勝五郎といい、父の忠雄がすぐに病死したことにより2歳で家督を継ぎましたが、幕府は因伯32万石への転封を命じました。9歳で元服して光仲と改名し、12歳の時に百日就国で一度帰城しています。国政は家老の荒尾成利を中心として行われていましたが、紀伊大納言徳川頼宣の娘・茶々姫と結婚して3年後、慶安元年(1648)に19歳で正式に帰国して自から藩政を執行するようになります。藩主親政へと移行させる間、老臣荒尾成利と衝突を繰り返し、ついに承応元年(1652)成利の独断的行為十余条をあげてその責を問い、成利の家老職を罷免しました。隠居するまでの約30年間は全国的にも諸制度が確立した幕藩体制の確立期でもあり、この事件を境に光仲の親政は確立し、二男仲澄を分家して家の永続の基礎などをつくりました。また、光仲は徳川家康の曾孫にあたるため池田家は徳川幕府と深い関係にあり、藩主の名前は時の徳川将軍の名前から一字をもらってつけられています。(例:3代将軍徳川家光→初代藩主池田光仲)
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