久松山山頂の山上の丸と、西麓の山下の丸の二つに分かれています。誠通の後は山名祐豊の弟・豊定が入り因幡山名氏15代を継いで16代豊数、17代豊国と天神山城を本拠として、鳥取城には城番として家臣の武田高信が入りましたが、永禄7年(1564)に高信が天神山城を攻撃して当主の豊数が戦死し、天正元年(1573)に豊国は毛利氏に滅ぼされた出雲尼子氏の遺臣・山中幸盛の助けを受けて武田高信を追い、以後鳥取城を本拠としました。この頃になると毛利氏一族の吉川元春の勢力が山陰道を東漸し豊国もその麾下に属することになりながら、天正8年(1580)羽柴秀吉の因幡攻めが始まると豊国が降服し、吉川経家が開城した後は城攻めに功のあった宮部善祥坊に与えられ5万石を領しました。しかし、子の兵部少輔が関ヶ原の戦い(1600)で西軍についたため没収され、池田長吉が城主となりました。長吉は山上の住居が不便なため、中腹に二の丸を築き城池を広げて外濠を拡張し、元和3年(1617)には池田光政が姫路から国替えで入りました。光政は袋川を南に押し出し、その懐に三重の防御線を構築しましました。寛永9年(1632)には岡山から従弟の光仲が入封し、その子孫が明治維新まで続きました。なお天守閣は、豊国が天神山城から移築した三層のものを長吉時代に二層に改修され、元禄5年(1692)落雷によって焼けてしまったと伝えられます。明治維新後は陸軍省の所管となって明治12年に建造物はすべて壊されましたが、山上に天守閣・月見櫓・東井戸跡、西麓に二の丸・天球丸・馬場跡などの石塁や石垣が残り、現在残る城跡は長吉造営以後のもので経家在城時の遺構は不明ですが、戦国争乱期の山城から近世の平山城・平城への移行過程を示すものとして学術的にも貴重とされ、東方の太閤ヶ平(本陣山)を含めて国の史跡に指定されています。
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