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広島道物語
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一般国道2号(西部)
一般国道2号のルーツは古代から
現在の一般国道2号の原型は山陽道です。山陽道の歴史は古代に始まります。
律令国家の時代、都と九州の太宰府を結ぶ官道が政治・外交上最も重要な幹線道路でした。その大部分を占めていたのが山陽道で、唯一「大路」に指定されていました。政治の中心が関東に移った江戸時代には西国街道(西国往還)などと呼ばれ、幕府の五街道からは外れますが、参勤大名や長崎奉行などが往来し、五街道に次ぐ脇街道として重要な幹線ルートであることには変わりありませんでした。
この時代、領国を経営していく上での必要性から街道をはじめ脇往還、小道など道路の整備が積極的に行われるようになります。
西国街道の宿駅は、桜尾城のある城下町廿日市、玖波(現在の大竹市)などに置かれていました。
鎌倉時代、毎月20日に定期市が立つようになったのがその名の由来の廿日市市は、律令時代に既に駅家が置かれていました。江戸時代になると山陽道と津和野街道が分岐する交通の要所として本陣が設けられ、宿場町として栄えました。その後、明治になって郡役所が置かれ、佐伯郡の中心的な地位を占めました。
大竹市は、広島の西の玄関口。古くから山陽道の要路として駅が置かれ、毛利氏、さらに福島氏の支配のもと、開拓によって町づくりが進められ、それは今も続いています。
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