さらに、城下町中を流れる当時の袋川の流れについて、『鳥府志』にその流路を見ることができます。妙要寺のいと場(箕浦のいと場)の上より薬研堀へ続き、寺町侍屋敷をぐるりと廻って小姓町筋に架かる土橋へ流れ、元大工町の土橋より山伏掘へ出て、江崎、掛出しの土橋の下を流れて御銀札場を迂回し、香河家(日赤病院裏あたり)の庭園の森のところからまた上へ曲がり、学館内で曲がって若桜往還を横切り、侍屋敷を下って新蔵(藩の米蔵。西町愛真幼稚園あたり)の堀からまた上がり、荒尾家の屋敷(愛真幼稚園の向い側西町1丁目の一角)へ入って智頭往還を横切り、荒尾家・福田家の屋敷(西町3丁目の一角)境へ入って、羽田家・唯家(鳥取検察庁、西町4丁目の一角)の屋敷の後ろ流れて、柳蔵(醇風小学校のあたり)惣門の内堀へ御蔵沿いに進み、杉浦惣門の前へ出て三日月掘から丹後町(材木町)の堀に出て、最後は今の袋川筋を丸山の方へと流れ出ていくという様子が書かれ、流路が大きく蛇行して流れていたことがわかります
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