因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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大茅地区の地名 【地誌大字、小字 集落地名の伝言】



大茅

大草、大萱とも書きます。屋根をふくカヤ草の茂る地域という説や、大茅山に由来するという説などがあります。


雨滝

雨滝集落雨滝集落

雨滝集落には古くから著名な雨滝瀑布があります。よって『因幡民談記』や『因幡誌』にも、この滝の名をもって村名としたことが記載されています。『鳥取藩史』の中には旧名として「天瀧」と記されています


木原

木原神社木原神社拡大

字のごとく、太古には大木の繁る原っぱであったからと伝承されています。今でも水田整地等の際に、大杉の根がそれぞれのあざ地から掘り出され、また村の神社境内には「夫婦杉」と呼称される直径2.7mの大杉があり、伝承を裏づけしている感がありますが、平成16年の台風18号により夫婦杉の片方が倒壊してしまいました。なお、集落の下手、雨滝川を距てたところには元禄14年(1701)に分村した下木原があります。『鳥取藩史』の中には旧名として「木野原」と記されています。


石井谷

因幡の北部、蒲生川・小田川流域の地方はもと巨濃郡といわれていましたが、後に岩井郡となりました。岩井郡は初め石井郡といい、元禄14年(1701)に岩井郡と書き改められたと『藩史』にあります。石井谷という村名は、昔この村が石井郡へ抜ける谷の入口にあったからと伝承されています。昔の道筋は分かりませんが、ここから山越えして雨滝に出て十王峠を越すと石井の谷へはそう遠くはないことから、「石井の谷への起点」、それが栃本廃寺等で栄えたこの地方の自然であったのかもしれません。
なお、『鳥取藩史』の中には旧名として「岩井谷」と明記されています。


大石

大石神社大石神社
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宮の上に大石神社があり、祭神は「御井ノ神」で、開拓神です。この神社の背後に周囲26m、高さ2.5mの巨石があります。この石が村のシンボルとなり信仰の対象となってこの地に神社が建てられ、大石のある村として大石の村名が生まれたのではないかといわれています。


栃本

栃本廃寺跡栃本廃寺跡
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旧大茅地区の中心地で、村の近くには、昭和10年に国指定になった栃本廃寺跡があり、東福寺という大寺があったとも伝承されています。また、中世以前には内向山の山腹に酒賀神社を奉還したこともあるといわれ、付近には数個の後期古墳も確認されています。村名の由来については、『日本地名語源辞典』や『因伯郷土史考』では村のシンボルになった栃の木に由来するとし、『酒賀神社古記』では地域の中心を表す土地の本に由来するとし、「栃」は「土地」のあて字であると考えられています。


菅野

酒賀神社 酒賀神社
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『因幡誌』によると、菅野村には菅野大明神があり、側に宮司一人しか住んでいなかったとあります。栃本より右南の谷奥十四町ほど山の上にあって、下上地へも十四町ほどの場所にあります。『三代実録』に載っている酒賀神社は、「すがの山の麓にある菅野大明神」のこと。酒賀・須賀ともにすげ(すが)の仮字書であることから同じ社を意味しています。


楠城

楠城楠城
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元禄時代(1688〜1704)には「苗代」と書かれていましたが、10数年後の享保元年(1716)の『郷村高辻帳』には「楠城郡、古は苗代村」とあります。また、村にある2箇所の城址や多くの墓石はいずれも楠氏のものであるという伝説から、米の収穫高から付いた「苗代」という名が楠氏ゆかりの地から「楠城」へ改名したのではないかと考えられています。


拾石

拾石付近拾石付近
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国期には「十黒」と書かれていたようですが、江戸時代の郷村帳高等にはいずれも「拾石」と表記されています。どうして「十黒」から「拾石」になったのか理由は明らかではありませんが、川向こうに豆の木があり、一本から十石とれたので十石村というようになったという話が伝承されており、収穫の多さなどに由来するのではなかといわれています。