因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
HOME >> 袋川流域 地名が語る物語

広域地名の伝言


地域の変遷
地域の変遷
地域の変遷


@因幡

古くは「稲羽」と書かれ、『古事記』にも「稲羽の白兎」という記述が見られます。この名は当時の政治の中心地、国府が置かれた法美郡稲羽郷に由来し、国の名を因幡と書くようになっても、郷名はそのまま残りましられています。
また、『因幡誌』では武内宿禰が下向の折、三韓遠征の幡をこの地に祀られたところから稲葉の字を因幡に改めたと伝え、『岩美郡史』では尺山の西南の狭間という所にある5畝歩ほどの半月形をした田地に稲葉大明神が初めて稲苗を植えた由来によりこの田地を古苗代と呼び、古苗代の地が稲葉の国名の起きた由緒の地であるとも伝えています。


A鳥取

地名の由来は、垂仁天皇の皇子の本牟智和気御子ために設けられた、水鳥を捕る朝廷の鳥取部が住んでいたことによると伝えられています。かつては千代川、袋川によりこの一帯が広い沼沢地であり、多くの水鳥が生息していたと思われます。


B国府

良・平安・鎌倉時代に因幡国の国府が置かれた地であることに由来します。


C邑美

郡名の史料上の初見は神亀3 年(726)の『山背国愛宕郡雲下里計帳』(正倉院文書)で「因幡国海郡」と見えます。海郡は邑美郡の異字で、『和名抄』では「於不美」と書かれています。後世に訛ってウハミと呼ばれ、池田家の初めの文書には上美郡と記されましたが、寛文年間に邑美に戻り、ウハミ、ムラミと読まれていました。邑美の北は大海に接していることから、大海や、淡海、すなわち淡水湖に由来すると考えられており、鳥取砂丘のなかの多鯰ヶ池、または砂丘内側の千代川や袋川の下流域に形成されたラグーンに由来するものであるといわれています。


D法美

法美郡の郡名の由来については、「ほおうみ」にちなむとの説があり、北接する邑美郡に対し「秀邑美」の意からきたと伝えられています。また、『延喜式和名抄』では「波不美」と書かれ、国府もこの中にありましたが、巨濃郡(近世岩井郡)との境界が移動したり、『和名抄』の郷名が混乱した時期もあったようです。『拾芥抄』には「法味」とも書かれています。


E岩美

治29年に邑美・法美・岩井の3郡が合併して岩美郡が成立し、郡名は岩井郡の「岩」と邑美・法美郡の「美」を合わせて命名されました。