因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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宮下地区の地名 【地誌大字、小字 集落地名の伝言】



美歎

美歎水源地美歎水源地

古くは「三谷」といったようで、『因幡誌』には「三谷村」とあります。「みたに」は「三つの谷」「深い谷」「美しい谷」「御谷」等、色々な思いを込めて名付けられたと思われますが、『延喜式神名帳』(927年成立)の中には既に「美歎神社」として載せられ、『日本三代実録』(901年成立)にも「因幡国美歎神」として取り上げられています。つまり、これらより後に三谷と書くのは筋が合わないことになり、『因伯地名考』では『因幡誌』の三谷村表記は厳密に言えば誤りであることを指摘しています。
さらに、表記については、「三」を美称して「美」にし、谷は「たん」と発音して同音の「歎」を借字して「美歎」となったとする説や、「水谷」が略音して「みたに」になり、「美歎」へ転化したという説などがあります


町屋

地名の由来は、『因幡誌』に国司が京都より国府に赴任してきた時の宮市の跡で、そのまま名前が受け継がれてきたとあり、『鳥取県地名辞典』には古代国府の市場町であったことによると書かれています。
また、大正年間に「寺前」から掘り出しされた銅鰐口に「因州法美郡広西郷五日町屋産地福寺 干時明徳二癸二酉(=四癸酉)年六月二十四日」という銘が刻まれていていたことから、室町時代初期には現在の町屋付近を五日町屋と称し、寺前付近に地福寺があったこと、中世に広西郷の郷域が西方に拡大して町屋も広西郷に属していたこと、さらに月の五日か五のつく日に市場が開かれていたことなどが推測され、古来から名前が引き継がれ、その後も地方物資交易の中心地であったことが窺い知れます。


大伴家持歌碑
大伴家持歌碑

宇倍野村大字庁村はかつて政治堂があったところで、因幡守の大伴家持が新年の祝歌を詠んだ因幡国庁があったことから「庁」という名前がついたと『岩美郡史』にあり、『鳥取藩史』には旧名が丁で国庁跡であることが書かれているなど、村名が、古代の国庁が置かれていた場所であることに由来して名付けらたことが多くの文献に見ることが出来ます。


宮下

宇倍神社
宇倍神社

宇倍野大字宮下村は稲葉山(因幡山)の麓にあって、宇倍神社の下に位置することから、一の宮の下の村という意から生まれて「宮下」と呼ばれ、国司が赴任して政務を執っていた時代には国府の宮下ともいわれていたということが、『稲場民談記』、『因幡誌』、『岩美郡史』をはじめ多くの郷土誌に記されています。 


奥谷

元禄時代に宮下の枝郷として分かれた際に、「一ノ宮の奥の村」から「奥谷」という村名が生まれたと考えられています。集落は村の北側の谷あいで通称「奥屋敷」と呼んでいるあたりにあり、家数は数軒余りと推定され、また、「谷」は「たん」「だん」とも発音したため、「おくだん」とも呼ばれています。


中郷

昭和47年から54年にかけて鳥取県教育委員会が行った発掘調査によって集落の南西100mの水田中より大規模な因幡国庁の遺構が発見されたことから、この集落がかつての因幡国庁の所在地であり、国の中心地であったという歴史的環境から「中郷」という村名が生まれたといわれています。


国分寺・法花寺

国分寺尼寺跡
国分寺
尼寺跡
拡大

奈良時代、聖武天皇の御代に疫病と天変が相続き政情も落ち着かず、国中に不安と動揺が広がりました。そこで天皇は神仏の御加護にすがるこほかないことを考えられ、天平13年(741年)に国分寺建立の詔を発布し、各国府の所在地に国分寺と国分尼寺を設置させました。因幡に建立された国分寺と法華寺(国分尼寺)の創建当時の姿を伝えるものは礎石を残すのみですが、集落の名前として残ったと伝えられています。


三代寺

三代寺の石塔群
三代寺の石塔群

村名の由来は明かではなく、『因幡誌』などにも古代に三代寺というお寺があったことによるとしか記されていません。わずかに村の西にある「奥谷」、また村から広西へ抜ける大通りから右に逸れたところに「焼地蔵」という地があり、それらは寺跡と伝承されています。ただ寺跡といわれているだけでその寺が三代寺であったという確証は何もありませんが、私都へ通じる前方の官道は秀吉の鳥取攻めの針路であったといわれているので、そうしたときの兵火と関わりがあるのではないかと思われています。


三郷

殿ダム建設事業によって、拾石・楠城・殿の三集落の15戸が移転をしたことにより、三郷となりました。


稲葉丘

ここにはかつて鳥取歩兵第四十連隊の射撃場があり、戦後しばらくは荒地のままに放置されていたところ、昭和29年8月から国による払い下げが開始され、昭和31年3月19日に設立された財団法人鳥取県住宅公社(昭和40年11月1日からは鳥取県住宅供給公社)により、県最初の模範団地を目ざして造成が開始された場所です。


分上

奥谷の小字名で、南方の「計天牟」(または化田・血田・仮殿・仮田)と同じように古い地名と思われますが、その由来については今のところ明らかでありません。ただし、一説には、「分上」の「分」は「分割」、上は「献上」をあらわし、「分上」は一ノ宮の領田を守るために中央権威に対して献上田を策定した(実際には収穫物を献上した)土地ではなかったかと考証されています。


新町

旧袋川の川筋跡
旧袋川の川筋跡

新町の中心部の「八丁」周辺は、奥谷宮下土地区画整理事業終了後、昭和59年4月1日から国府町の新しい町として「新町」と改められ、その中心にあおば公園が設けられました。


新通り

あおば公園付近
あおば公園付近

奥谷宮下土地区画整理事業終了に伴い町界・町名が変更された折、昭和43年頃から行政上の慣例になっていた「奥谷(宮下)新通り」を受け継ぐことになり、昭和59年4月1日から正式に「新通り」となりました。