因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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成器地区の地名 【地誌大字、小字 集落地名の伝言】



成器

明治28年に組合立小学校の校名は、中国の古典『礼記』王制編の「錦文珠玉は成器にして市に粥がず」を引用して命名されました。成器とは“素晴らしき『うつわ』”の意です。村名はその成器尋常小学校から引用されました。


上地

上地の棚田上地の棚田
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標高1310mの扇ノ山登山口にあたる高原の村は地域の上であることから「上の地」、これが「うえち」になり、音の変化や省略によって、「うわぢ」さらに「わぢ」「わじ」になったとする説や、新田村として下上地が誕生して上地鉱山の採掘も行われていたことから、近隣の山間部に比べて肥沃な土地であることを表し、「上等な土地」から上地の村名が生まれたとする説などがあります


荒舟

木原神社
上荒舟神社

上荒舟にある上荒舟神社の『子守神社縁起』には、小肢谷にある磐根(または普根)の国は修祓の地とされ、未開の荒れた普根の里から「荒舟根」、「荒舟」へ転じたと載せられています。その他にも、この地方に古くからある水葬の習わしから「荒霊葬送の地」が語られるようになったとする説や、「荒畝」の転化で「あらうね」から「あらふね」へとする説、山の形が舟の形に似ているからという説などがあります。


山崎

山崎城のある山
山崎城のある山
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上地川と雨滝川が合流しているところから、この両川に挟まれた山の先端にある村なので「山崎」というようになったといわれています。また、『岩美郡史』によれば大江広元が荒舟に来て城を構えた折に、ここを山崎と名づけたとも伝えられています。


神護

神護集落
神護
集落
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『因幡誌』には、神護という名は大茅郷を領地した松島神護兵衛からとったという説は間違いであり、最初から神護という地名があり松島氏がその地名をとって神護兵衛としたと書かれています。『因伯地名考』には、かつてはこのあたり一帯を大草郷といい、郷の大半は菅野大明神の社領だったことから、社領に生活する人民、つまり「神戸」が「じんご」になり「かんご」に変ったのではないかとあり、鳥取の「神子谷」が「かごだに」になったように、神社に仕える女性、すなわち「神子」が「かんご」と読まれたことからとも考えられています。『鳥取藩史』には旧名として「神後」と明記されていますが、元禄以後、今の字に改められたと考えられています。


殿

殿集落 殿集落
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「殿」という村名は全国的にも例は多く、鳥取県内でも気高町と船岡町に同名の村があります。この地も村の前に雨滝川が流れ、その上に毛利氏が籠もった山崎城跡がそびえていずれも山崎城に伴う領主や長老の屋敷後等にちなんでいるようです。元禄地図には今の山崎橋は200mほど上流にあり、ちょうど城跡の中央直下のあたりに架けられ、村に毛利の重臣たちの屋敷が並んでいたことから自然とこの名が付いたのではないかと考えられています。


中河原

「村の中の川に河原がある」ことから、中河原という村名が生まれたと伝えられています。河原は川筋の曲がった部分の裏側に出来ます。川筋が曲がっている場合、水の流れの正面は水勢によって急斜面が作られますが、その裏側には削られた砂礫が積み上げられて河原ができます。中河原地内の東域では、上地川と雨滝川が合流していますが、上地川は北側の山麓を削り裏側に河原を作り、雨滝川は南の山麓を削って裏側に河原を作り、このようにしてできた河原が川のまん中に広がっていきました。しかもこの河原は両方の水勢の相殺によって永く消滅することがなかったといわれ、村の象徴的存在であったと考えられています。 


松尾

学行院付近(松尾)学行院付近(松尾)
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『因幡誌』によれば、このあたりはもともと手見の里といわれ、吉野も松尾も一つの村でしたが、平安初期に山城国の松尾神社の分霊を勧請して松尾大明神が建てられたことにより、その社地へ吉野から分かれた枝郷が出来て、松尾神社にちなんでこの地を松尾というようになったと伝えられています。松尾神社ははじめ山上にありましたが、地勢が険しく近寄り難かったため後に山下に遷し、地名をとって手見神社と呼ぶようになりました。現在の手見神社は、大正3年3月3日に中河原の無格社中河原神社を合祀し、同6年9月20日には吉野の無格社吉野神社を合祀しています。


石井谷

この地はもともと松尾と一つの村でした。昔、国々の山伏が大和国の金峰山の麓の吉野を通って山に入り、大蜂入りの修行をしましたが、役行者が金峰山を拓いて100年あまり経ってからは毒蛇が多くて登れなくなり、この大峰入りを国毎ですることになりました。因幡では荒金谷の深山に役行者を勧請して国峰と称し、この村を起点として宇倍山を通り、荒金山に入って大峰入りの修行をしました。その出発点の集落が奈良金峰山(大峰山)の麓の吉野によく似ているので、この村を「吉野」と呼ぶようになったと『因幡誌』にあります。因幡には飛び抜けて高い山がないため、どの山が国峰であったのかは明かではありませんが、巨濃郡荒金谷から推測して大茅山のことではないかと考えられています。 


新井

新井の石舟新井の石舟
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石舟の古墳は、安徳天皇が壇ノ浦から落ち延びてきたときに随行した、祖母の二位の尼の墓だとする言い伝えがあります。そこから「二位」の名がでて、世を忍んでいた人の名を表沙汰にするのは適切でないということから同じ訓の「新井」に改まったとする説の他、新しい泉が湧いたことを祝福したからという説、新しく居住してきた人々が土地を祝って「新居」とした後に泉が湧き出たことを喜んで「新井」に転化したという説などがあります。