因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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万葉の里に華開く文化の香り


大伴坂上郎女

大伴坂上郎女

鉾橋のたもと等ケ坪廃寺の礎石の横に昭和44年6月、歌碑が建立されました。『古今和歌六帖』第四巻に収められている歌で、大伴坂上郎女は大伴家持の父・大伴旅人の妹で家持の叔母にあたり、また、娘を家持に嫁がせているので義母にもあたります。「家持はいま、面影山のほとりでどのように暮らしているのでしょうか。私は毎日なつかしく思い暮らしているけれど、その姿を見ることはできない。気がかりなことです。」と、因幡国の国守に赴任している家持のことを想って詠った歌であるといわれています。歌の道にも格別に知識が深く、『万葉集』の中には長歌6、短歌77、旋頭歌1を載せ、女流歌人の作としては一番多く、家持を助け、『万葉集』編纂の一端を担った功績は大きかったのではないかと思われています。

わがせこが 面影山の さかゐまに われのみこひて 見ぬはねたしも


在原行平

在原行平

中納言在原行平は平城天皇を祖父にもち、六歌仙・三十六歌仙の一人である在原業平の異母兄にあたります。在原氏一門の学問所として奨学院を建て、また後世、謡曲「松風」の題材の一つにもなりました。大伴家持の歌碑の近く、駐車場の隅に大きな自然石を用いた歌碑が、平成9年11月に建立されています。

立ちわかれ いなばの山の 峰におふる まつとしきかば 今帰りこむ


藤原敏行

藤原敏行

『古今和歌集』第四巻に収められている歌で、藤原敏行は陽成天皇の元慶2年(878)に因幡国守となりました。三十六歌仙の一人に数えられ、書道の名手として知られています。

秋来ぬと 眼にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる


平祐挙

平祐挙

平祐挙は三条天皇の長和4年(1015)頃関白藤原道長の家司として知られ、「いなば」と「面影山」が見られるこの歌は『夫木和歌抄』第二十巻に収められています。

いなばよと とわましものを 恋ひ偲び 忘られがたき おもかげの山


藤原定家

藤原定家
藤原定家

平安時代最終の年である建久2年(1191)2月に因幡国の権介に任ぜられ、やや遅れて因幡に赴任したといわれています。『千載集』の選者・藤原俊成の子で、元久2年(1205)に成立した『新古今和歌集』の選者の一人であり、この歌は第十一巻の中に収められています。

忘れなむ まつとな告げそ なかなかに いなばの山の 峰の秋風

これもまたわすれじ物をたちかえり いなばの山の秋の夕暮れ


安貴王の歌

安貴王の歌

『万葉集』第四巻に収められている長歌で、安貴王は養老末年、藤原麻呂の妻とされる因幡国の八上の采女と婚したことで不敬の罪に問われ引き離されたため、それを悲しんでふと作った歌といわれています。


藤原兼輔

藤原兼輔

紫式部の曾祖父にあたり、『源氏物語』に登場する「人の親の心はやみにあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」と子を思う親心を詠んだ歌は、兼輔が醍醐天皇の更衣となった娘・桑子の身を案じて詠んだものともいわれています。紀貫之ら延喜朝の歌人達の庇護者であり、賀茂川の堤に風流な邸宅を構えていたため、「堤中納言」と呼ばれました。また、三十六歌仙の一人で百人一首の二十七番歌に選出されています。この歌は『古今和歌六帖』第三巻に収められています。

因幡川 否とし遂に 言ひ果ては 流れて世にも 住まじとぞ思う


藤原言直

藤原言直

藤原言直は、藤原北家・右大臣内麻呂の曾孫にあたり、醍醐天皇の昌泰3年(900)、因幡国の掾(国司の三等官)に任ぜられました。

春やとき 花やおそきと 聞きわかむ うぐいすだにも 鳴かずもあるかな


佐佐木信綱

佐佐木信綱

明治5年三重県鈴鹿市に生まれ、歌人として多くの現代歌人を指導し育て上げるとともに、万葉学者としても著名で、昭和12年には国文学者として第一回の文化勲章を授与されました。この歌碑は大伴家持の千二百年祭(昭和34年)にあたり、家持の顕彰碑に並べて建立されました。天平宝字の昔を偲ぶ87歳の歌人の心情が、三一音の中に惻々と流れていると讃えられています。

ふる雪の いやしけ吉事 ここにして うたひあげけむ ことほぎの歌