因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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鳥取砂丘の句碑・歌碑


森川暁水 句碑

森川暁水 句碑

大阪生まれ。山本梅史、高浜虚子に師事して『ホトトギス』『泉』の同人として活躍し、大阪を代表する俳人として根強い支持がありました。昭和12年9月松江、三朝などの山陰旅行の途中に鳥取砂丘に立ち寄った際に詠んだ句で、それから30年余り経った昭和44年10月、国民宿舎砂丘荘(現在閉鎖)の正面玄関斜め前に建立されました。

月荒き 砂丘は古邑 うづむとや


高浜虚子 句碑

高浜虚子 句碑

松山市生まれ。正岡子規に師事して俳句をはじめ、俳誌『ホトトギス』を主宰し、俳句だけでなく和歌、散文などを加え“ホトトギス王国”の基盤を築き上げました。この句は昭和7年10月に鳥取砂丘で催された大吟行句会で詠んだ時の作品で、同行した俳人たちの作品も傑作揃いだったため鳥取砂丘は一躍俳壇の注目を浴びることになりました。昭和39年10月に鳥取ホトトギス会の働きかけで句碑が建立されました。

秋風や 浜坂砂丘 少し行く


枝野登代秋 歌碑

枝野登代秋 歌碑

島根県松江市生まれ。大正7年に中原綾子、生田蝶介に師事して短歌を始め、昭和2年に鳥取市に移住して「鳥取短歌会」を結成し、現在も発行されている歌誌『情脈』を創刊、主宰しました。短歌一筋の生涯を歩み、鳥取における現代短歌の普及向上と短歌人口の底辺拡張に努めました。この歌碑は、300号発行の記念事業として昭和33年に鳥取市浜坂の十六松公園に建立されましたが、砂丘文学広場設立にともない現在の鳥取砂丘こどもの国の入口向かいに移されました。

砂丘をいくつか越えしが波音の まぢかにきこえて海まだ見えず


有島武郎 歌碑

有島武郎 歌碑

京生まれ。『白樺』派として大正文学の傑作を数多く残しました。大正12年4月、水脈社主催の自由大学講座の講師として来鳥した際、鳥取砂丘に案内されて詠んだ歌です。それから1ヶ月余り経った6月9日、信州軽井沢の別荘で『婦人公論』の記者・波多野秋子と情死を遂げたため、この事件の後、この歌によって鳥取砂丘は一躍有名になったといわれています。文字は有島の妹・山本愛子の筆で、昭和34年4月に鳥取文化財協会によって建立されました。

浜坂の遠き砂丘の中にして さびしき我を見いでけるかも


有島武郎・与謝野晶子 歌碑

有島武郎・与謝野晶子 歌碑

大阪生まれ。明治・大正・昭和を短歌とともに生き、“情熱の歌人”とも呼ばれました。有島武郎と深い親交があり、昭和5年5月25日に夫の与謝野寛(鉄幹)と砂丘を訪れ、死を覚悟するほどの侘びしい自己を見出した友人への鎮魂歌として詠んだ歌です。歌碑は鳥取砂丘の西の端『武郎晶子侘涙の地』に建立され、有島の「浜坂の...」の歌とともに刻まれています。

砂丘踏みさびしき夢に与かれる われと覚えて涙ながるる