因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
HOME >> 袋川流域 街道と峠

街道の道しるべ 2

藩政時代の街道は人の往来が少なく草むらや山間地を通ったので、道の分岐点では迷うことも多く、尋ねようにも人がいなかったため、道の要所には石の道標を建て旅人の便宜をはかっていました。また、小さな山道であっても、道標や地蔵尊を建てて旅の安全を願いました。今日ではその多くが道路改修の際に取り除かれたり土の中に埋れたりしてしまいましたが、いまでも街道を見守る地蔵尊などを横目に歩を進めると、かつての旅人が道標を頼りに名勝旧跡を訪ねたり修験・廻国をしつつ往来した姿が偲ばれます。


山根入口の地蔵

山根の入口には道の右側に地蔵尊が建っています。台座からの高さが94cmあり、頭部が失われたのち、五輪塔の風空の部分に目と口を彫って代用としています。


旧山根橋の地蔵一石一字経塚、仏石塔

旧山根橋のたもとに村人の念仏講中によって寛保(1743)年に建立された地蔵尊があります。山根入口の地蔵と同一様式でほぼ同高の造りのため、山根村の上手と下手に一対として建立されたと思われます。地蔵尊の横には4段の石檀上に高さ約130cmの一石一字経塚があり、その左右には南無地蔵菩薩と南無阿弥陀仏と刻まれた二基の石塔が建ち、前者は鳥取の福井伝兵衛が正徳3年(1713)に地蔵菩薩の大願に帰依して建立したことが記されています。


山根の地蔵と六地蔵

新山根橋と街道が交差する所に弘化3年(1846)に建てられた六地蔵と、文化3年(1805)と台座に刻された一基の地蔵尊があります。


舟山の地蔵

吉野橋までの道の左側、舟山の山際に地蔵尊が二基建ち、大きい方に「嘉永三年戌三月吉日」と刻銘されています。。


中河原橋の橋安全地蔵

中河原橋左岸に総高約160cmの地蔵尊があり、「文化十年水無月 施主村中」と刻まれています。“水無月“と刻むのは陰暦の6月が陰陽道でいう土気強い月で水を克服して水害を防ぐことに由来し、橋の安全を願って建立されたものです。


三界万霊塔

中河原上手の寺屋敷という場所に建っています。これは生死流転の姿を欲界・色界・無色界の三界にわけ、生きる万霊の幸福を願い死後の冥福を祈って建てられたもので、側面には「文化十三年寅五月当寺十世滝本院了宥代 願主真先裕哲」とある高さ約2m幅45cmの細長い石塔です。


楠城の道標地蔵

拾石から楠城へ続く雨滝街道の道筋を示す小さな道標地蔵で、楠城地区への登り口左手の坂の下の三差路に建てられています。高さ45cm、横幅28cmあり、顔の右側が削げ落ちてしまっていますが、地蔵尊像の左右に「右なわ志ろみち」「左たちまみち」と刻まれています。地蔵尊の周りには五輪塔の地部や風空部、宝珠院塔の相輪部などが集められています。


雨滝橋の六地蔵

雨滝橋を渡って道の左手にあります。


雨滝番所

幕末になると各国の藩士や浪士の往来が激しくなったため、鳥取藩では文久3年4月に各要所に番所を置きました。雨滝番所は雨滝橋から十王峠に向かう間に置かれ、鳥取から十王峠と女峠(洗井村より蒲生峠まで)を越えて但馬に通じる要所に設けられました。


丸塚橋の地蔵

雨滝から丸塚橋の近くまで進むと右の道ばたにあります。台座が逆に建てられており「宝暦二年」と読めます。丸塚橋を渡ると道は分かれ、街道は左の蕪島へ向かいますが、右に行くと7kmで河合谷高原へ出ます。


十王峠の地蔵

十王峠への道は急坂で道幅も狭かったため、明治期に県道として約4mの道が洗井を通り、蒲生峠まで通じました。昔の峠は現在の峠の手前を左に入った所にあり、急な坂を下って銀山村に至ります。峠の手前で道は二つに分かれますが、左側に松の古木があり、根元に像高42cm、台座を含めた総高が72cmの地蔵尊がありました。難工事の十王峠の切割が完成したところ、峠の少し手前の地蔵尊が古い峠に淋しく取り残されていたので、新しい道路ができた数年後に現在の所に安置されました。一本松は、二本植えられていたところ、小さいときに一本を切れらてしまったということです。