因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
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民話・伝説 3



21、太多羅大明神のモッコ伝説<甑山>

岡益の太田神社の太多羅大明神が近くの山をモッコで担いで歩いていたときに、担ぎ棒が折れて担いでいた山を置き去りにしました。これが甑山だといわれています。


22、武内宿禰の甑伝説<甑山>

武内宿禰が因幡の国に入ったときに、高草の鍋山に鍋をすえ、この山に甑(蒸し器)を置いて飯を炊いたといわれています。


23、武内宿禰と血田伝説<ケデン河原>

”ケデン河原”と呼ばれている辺りは、武内宿禰が因幡国遠征のときに、先住のケデン族を制圧したといわれている所です。ケデンというのは「血田」という地名とされています。または、「計天牟」・「毛田」・「仮田」・「仮殿」とも書かれています。


23、雨滝の伊平の知恵<宇倍神社>

ある日、若殿が領地を検分するので、物知りでよく知恵のまわる雨滝村の伊平という老人が案内役に選ばれました。宇倍神社の前に来たとき、茶目気の多い殿様がこの寺の名前を尋ねると、伊平は“一宮山・長命寺”と答えました。さらに次々と絶妙に答える伊平の博学に殿様は感心し、引出物を下されました。


24、武内宿禰双履石伝説<宇倍神社>

360歳余も生きた武内宿禰が本殿裏の小高い丘の上に双履を残してお隠れになりました。


25、松風・村雨の伝説<在原行平の塚>

在原行平が須磨の浦で見初めた美しい姉妹の松風・村雨は、行平が因幡国守を務めていた間、稲葉山の麓にて楽しく過ごしていましたが、行平が任期を終えて都へ戻った後は思い出だけを生き甲斐にして岩美郡福部村左近の村で人目を避けて暮らしました。死後、別れを悲しんだ稲葉山に2人の墓が造られ、稲葉山の老松の根本には「在原行平の塚」といわれる宝篋印塔が建ち、近くに「松風・村雨の墓」が並んでいたといいます。


25、早鐘の犬の伝説<犬塚>

因幡の国分寺と法華寺のどちらかに、食事時になると決まって一匹の犬が姿を見せるようになりました。昼時になると、鐘が早く鳴る方の寺に行ってご馳走をもらっていたため、ある日、国分寺の坊主が法華寺の尼僧にいたずら話を持ちかけて、両方の寺の鐘を同時に鳴らしてみました。犬は右往左往の末、ついに力尽きて息絶えてしまいました。それを見ていた村人は可哀相に思い、犬が倒れた道ばたに石の塚を建てて懇ろに弔いました。


26、袈裟懸けに斬られた地蔵伝説<桜谷の六地蔵>

桜谷から今在家へ行く道筋に六地蔵が並んでいます。その近所で縁が実らず流産して亡くなった娘の呪いのような「はよ戻って来いよー」という声が、婚礼の列が通るたびに今在家へつながる道に架かっている“おおかみ橋”の下から聞こえ、それを聞いた者は必ず縁が切れて帰ってきたといわれたため、嫁入りや婿入り時にこの道を通るのは忌み嫌われていました。ある時、通りかかった武士が声を頼りに斬りつけたところ、六地蔵の一体が肩口から袈裟懸けに斬られ、腕が切り落とされていました。


27、光る杉と恵心僧都の伝説<雲山>

恵心僧都が巡錫の折に正蓮寺に止宿された時、蜘山(現在の雲山)にあった本願寺の門前を通りかかると、杉並木の中の一本が不思議な光りを放っていることに気づき、村の長に頼んで譲り受け、その木で「毘沙門」、「吉祥」尊、「禅弐師」を手刻し、この三尊を正蓮寺に安置しました。この三尊はその後の兵火の難も免れ、鳥取藩の家老荒尾志摩が寺跡に護国山多聞寺を建てて祭り、明治維新後は修験山内家がこれを引継ぎ、祠に納めて祭っていると言い伝えられています。


27、立岩大権現の伝説<雲山>

恵心僧都が蜘山に立ち寄られた時、法華経を一石に一字宛書いて経塚を造り、封土の上に2、30mにも及ぶような大きな石碑を建てました。風雪に晒されて現在見られる姿になりましたが、頂上付近の立岩がそれです。ここに大権現が祭られ、航海安全だけでなく脳の病気にもよく効くといわれました。尾根の中央から北方に突き出している峰は「慈雲山」と呼ばれ、この頂上に「七人籠」と呼ばれる籠り堂がありました。大杙村落では昔から村に重病人が出ると必ず七人交代で籠り堂に集まり、前庭に篝火を焚いて隠岐島の燃火神社に向かって平癒を祈願する習わしがありました。ここから尾根伝いの逆を南の方へおよそ5、60m進むと林の中に中型の円墳があり、「雲塚」や「雲山塚」と呼ばれています。


28、長慶院法皇の伝説<面影山>

南北朝時代、南朝側の長慶院法皇が蒲生峠を越えて潜幸され、この地で崩御されました。


28、八百比丘尼の伝説<面影山>

大路山のネズミに招待された老女は出された人魚の肉を持ち帰り、これを食べた女の子が800年近くも生き、面影山山頂付近の平地に屋敷を建てて住んでいました。


29、八丁の竜の伝説<新町>

新町は昔、八丁といい、かつては大きな竜が出てきて荒らしまわり、南の方にあばれ込んで安田渕を作ったり、毛田の皮をむいて血を流したり、今在家や新通りの周辺に大きな沢を作って住みつくようになりました。そこで八庁の役人が策を講じて竜を追いやり、八丁の周りは肥沃な土地が広がり栄えました。その後、塩釜をたいた所には塩釜神社を祭り、大きな杙を打ったところを大杙と呼び、竜を追っぱらった吉方を吉方といい、それまで家がなかったところに家が建ち始めたので今在家と呼ぶようになりました。


30、うなぎ橋の伝説<中町>

鳥取の中町の東側は鰻町といい、鰻がたくさん棲息していたため、そこに架かっていた橋を「うなぎばし」と呼んでいました。この橋に一人の坊主が通りかかったとき、子どもたちが釣った鰻を買い取り、元の橋の下に放してやりました。それから三年後、坊主が再び橋のたもとに差し掛かったところ、袋川が氾濫しうなぎ橋は流されていましたが、突然大きな鰻があらわれ丸太橋のように川に体を浮かべると、坊主を向こう岸へ渡してくれました。それからは、うなぎ橋の近くで鰻を獲ったり食べたりすることはなくなりました。