因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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藩橋五橋の物語


藩橋五橋の架け替え

袋川に架かる若桜橋、智頭橋、鹿野橋、鋳物師橋、出合橋の5橋を藩橋といい、橋の修築は藩の手で行われました。これらの橋は惣門内外の連絡に必要不可欠なものであり、その流失を防ぐ方法も決まっていました。『鳥取藩史』によると、市中の酒造屋33軒に命じて各戸より3尺桶2本宛を出させ、橋上に置いて水を運び入れ、または、大石を数十個並べ、大綱で橋脚を繋ぐなどといった方法がとられていました。しかし、重りを置いたまま橋が流れていったという記述が『因溢物語』に見られるように、記録的な大洪水の際には、橋の流失は免れませんでした。


乙卯水による橋の流失と架け替え事業

●町人による橋の架け替え
寛政7年(1795)8月の洪水で、智頭橋から出合橋までの4橋が流失し、若桜橋が破損した時、当時新興の町人だった秋里屋権兵衛を中心に、松岡屋平左衛門・玉屋助左衛門が橋の新造を願い出ました。このことは『町人旧功書』の三家の条などで確認することができ、秋里屋権兵衛が残した詳細な記録『御橋記録』から、実際に町人側から藩に働きかけている様子が窺い知れます。積極的に事業を進めようとする町人側の姿勢が現れており、部材の調達や職人の選定、橋の仕様やデザインまで、町人側がこと細かに関与していることがわかります。

●藩政への貢献とその目的
このように秋里屋が橋の架け替え工事や、米問屋・絹織座といった藩の事業に積極的に関わった目的の一つとしては、町人仲間の中での地位の向上を狙ったものではないかと考えられています。享保7年(1722)祖父権兵衛の代に秋里村から移住して城下町人となった秋里屋は、町内での地位はさほど高くなく、古い家筋や光仲入府時から同行してきたといった歴史性に基づく由緒を持たなかったため、藩政への貢献によって “由緒”を築こうとし、その意味で寛政の袋川5橋架け替え事業は重要な事業であったと思われています。

●五橋の完成
まず、短期間での橋の新築は難しいため、各々の橋のあった場所の下流に仮橋を架けて往来ができるようにし、そして翌年の5月に智頭橋が完成しました。これは藩主池田治道公が江戸から帰国されるためでした。以前の橋と比べると木材も金物も大きく、この先20年は腐ったり壊れたりすることはないといわれ、続いて鹿野橋、鋳物師橋、出合橋も同様に造られました。唯一流失しなかった若桜橋も破損が大きかったので、これも新たに造ることを申し出ました。9月には5橋すべてが完成して秋里屋、松岡屋、玉屋の3人は5橋の渡り初めを行い、乙卯水では町人による藩橋架け替え工事が見事に執り行われたことが今に伝えられています。


若桜橋
智頭橋
鹿野橋
鋳物師橋
出合橋
若桜橋
智頭橋
鹿野橋
鋳物師橋
出合橋
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拡大
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