因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
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洪水に備える先人の知恵


御用石

洪水時、袋川の橋の上に重しとして並べられた石です。当時は橋が流されないように、橋上に置く重石が用意されていました。石の真中に「御用」と刻まれている大きな石で、100kg近くあったと言われています。大石の割合数は、若桜橋15、智頭橋12、鹿野橋13、鋳物師橋14、出合橋12と決まっており、藩より供給されていました。


注進制度

洪水に備えて袋川の水を監視し、水かさが変化する度に報告を義務づけた制度です。初めの頃は各町の見る場所によって報告をしていましたが、寛延2年(1749)から智頭橋付近の増水状況をもって一般防水準備の標準としました。
あわせて、町方の土手の受持区域も細かく決められていました。町奉行、町目付等の指揮のもとに、各町から常置の夫役を出し、計300人からなる16の水防団が結成されていました。夫役の者は、土手が決壊した時にその裂口に古畳、土俵などを入れて水を防いだりしました。こうした際に必要な俵、古畳等の供出もそれぞれの町に割当が決まっていました。この夫役の者は有事の際いつでも召集できましたが、共同の災厄に従事するというものであり、それに対する給与等は一切ありませんでした。


御救船

堤防が決壊しなくても市内所々の浸水は免れないので、それに対する交通や救助には御船手が御船宮備え付けの船を出して働きました。部署は常時定めがあり、随時救助船が出されたと思われます。