因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
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大地に刻された洪水の記憶


地名に残る水越(超)二箇所

八東郡の私部(私都)の水越:文禄2年(1593)8月に起こった高麗水の時に、王越道という小高い山の最も低い所を水が溢れて越えたといわれています。現在でも松の木を植えてその目印となっています。
岡益の水越:文禄2年(1593)8月に起こった高麗水の時に、岡益のこの場所まで水がきたといわれています。


洪水の水が来たと伝わる三箇所

学行院 学行院
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岡益の水越:奥の峠付近まで水がきたといわれています。
学行院:お堂の上まで水がきたといわれています。
宇倍神社:境内の庭まで水がきたといわれています。


洪水にまつわる三伝説

溜堀:藤綱という相撲取りが堤を破り水の勢いを減らしました。その時河水が流れ込んだ場所に大きな二つの水溜まりができました。 
船山:洪水の後、山の中腹に小舟が止まっていたといわれています。
楫取り岩:高麗水の時、鹿野町毛無山の八合目あたりにある大岩に船を繋いたと伝えられています。


川に流された二社二仏

延命地蔵 川床から出た地蔵
( 延命地蔵)
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多居乃上神社 多居乃上神社
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川床から出た地蔵(延命地蔵):新井と船山の中間の県道沿いにあります。この地蔵はすぐ近くの袋川の改修工事の際、川床から見つかりました。相当磨滅していますが、工事関係者の話によると、その昔この地蔵さんの御加護で九死に一生を得たというとで、その報恩と世の人々にも御加護があるようにと現在でも大切に祀られています。
大応寺の聖観音像:浜坂バス停のすぐ近くに曹洞宗の大応寺があります。この寺の大きな聖観音像は、水に流されて近くの川岸の泥の底に埋まっているのを発見され、江戸時代に復元修理されたものです。弘法大師が1000体の仏像を流したことにより「千躰川」と呼ばれるようになった伝説にふさわしい仏像であると伝えられています。
多居乃上神社:国府平野の中心地、広西にある神社です。『廣西民談記』に、ある洪水の時に川淵に止まっていた小さな祠を祀ったことが神社の由緒であるとする説が記されています。
流れ荒神:鳥取市河内にある山の頂の森の中に「流れ荒神」と呼ばれる祠があります。文禄2年(1593)8月に起こった高麗水の時に、山奥から荒神の祠が流れ出して、この山の中腹の木の枝に引っ掛かっていたのが見つかり、後に山頂に安置して奉りました。


救済所・供養塔

溺死海会塔 溺死海会塔
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天徳寺境内:洪水の後、救済所を設け、炊き出しなどの災害救助をしました。
浜坂の溺死海会塔:乙卯水の洪水供養塔です。江戸時代、千代川の流れはこの山すそ近くを流れていたので、袋川と合流した流れが近くに見下ろすことができます。乙卯水での溺死者が河口からの水の逆流によって海に流れず、多くの死体がこの付近に積み溜まったといわれています。