因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
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内の五山物語


面影山面影山
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@面影山(おもかげやま)

古代、鳥取平野は海でした。花崗岩や安山岩、凝灰岩、火山性礫岩などの基盤岩が岬状に日本海に突出して、遠浅の大きな湾を形成していました。この湾内には基盤岩から切り離された多くの島々が点在し、砂を堆積させるのに好都合な環境が整っていました。この多くの島々が点在する遠浅の大きな内湾を古鳥取湾と呼んでいます。


今木山今木山
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A今木山(いまきやま)

法花寺集落の東南にある標高88.9メートルの山で、古代に海を渡ってきた渡来人が住んでいた地として、「今来の山」ともいわれました。昔はこの山に木が多く生え、稲を植えているようだったことから稲木山と言って今木山と書くようになったとする言い伝えはもありますが、かつてこの地に今キ大明神という神社があり、地名を神号とする習わしがあったため、この里は今キといい、この地の山であるので今キ(衣)の山と言われていたと『因幡誌』にはあります。


甑山甑山
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B甑山(こしきやま)

稲葉山塊が大きく南に裾を落とし、袋川をねじ曲げるようにして打ち込んだ楔のようにそびえる標高110メートルの山で、第三紀中新世の堆積泥岩と安山岩質の火山砕屑岩からなる国府盆地の東の要衝的な存在の山です。山名は、岡益の太田神社の太多羅大明神が近くの山をモッコで担いで国府町の町家までやって来た時にモッコの棒が折れて、担いでいた山を置き去りにしたという話や、武内宿禰が因幡の国に入った時、高草の鍋山に鍋をすえ、この山に甑(蒸し器)を置いて飯を焚いたという、国庁の里が製鉄や袋川の穀倉で栄えたことを示唆するような昔話に由来しています。


御陵山御陵山
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C御陵山(ごりょうやま)

標高90メートルの御陵山は、「石堂の森」とも呼ばれています。壇ノ浦の合戦から逃れてきた安徳帝がこの地に留まり、崩御されたという伝説が残ることから、この名が付けられました。麓には6m四方の基壇の上に厚さ40cmの壁石で囲まれた石室があり、石室中央の柱礎の上にエンタシス方式の円柱が立てられ、中台の裏の忍冬文(パルメット)の浮き彫りにされ大陸伝来説も言われる、山陰最古の7世紀後半の建造物である「岡益の石堂」があり、安徳天皇御陵参考地としての指定を受けています。


手放山
手放山

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D手放山(てばなしやま)

美しい山容から地元の人々からは別名「神垣富士」とも呼ばれている、標高461.2メートルの山です。手放山はさらに袋川上流にあり、宝山との間に袋川が流れています。