因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

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「平」(がなる)と呼ばれる丘


鳥取地方では、ひらけた地域を「平」(がなる)と呼んでいます。袋川流域にもこの名が示すように「平」と呼ばれる、ひらけた丘があります。

@宝殿ヶ平(ほうでんがなる)

高岡集落の上方に見える、なだらかな丘のことを宝殿ヶ平と呼んでいます。名前の由来はよくわかっていないようですが、昔、高岡神社があった所といわれています。宝殿ヶ平は非常に見晴らしがよく、国府平野が一望できます。


A崩御ヶ平(ほうぎょうがなる)

荒舟集落の南方の山頂に崩御ヶ平といわれる台地があり、壇ノ浦より落ち延びた安徳天皇崩御の地と伝承されています。そこには武王神社、皇居、平家城、崩御宮、寺院等多くの建物のほか、馬の調練場所まであったとも言われていますが、確かなことはわかっていません。


B太閤ヶ平(たいこうがなる)

久松山の東北にあり、本陣山とも呼ばれています。登山道を3500m登り切ると、約400年前、天正年間に羽柴秀吉が鳥取城を攻めた時に羽柴秀吉率いる織田勢がこの太閤ケ平に陣屋を置き、久松城を守る吉川経家を大規模な包囲作戦と兵糧攻めで自刃に追いつめた戦の跡が残っています。


C天皇ヶ平(てんのうがなる)

南北朝時代、因州の守護民部少輔山名氏清公は、南朝の長慶院法皇を面影山に招き、そのとき法皇は蒲生峠を越え、因幡国の岩美郡岩美町洗井、そして岩美町長郷に滞在したと伝えられています。そのため長郷のあたりは天皇ヶ平と呼ばれるようになりました。


D戦場ヶ平 (せんじょうがなる)

『稲葉佳景 無駄安留記』(著:逸處米質)では、羽柴秀吉の鳥取攻めの舞台となった丸山のあたりを、「戦場ヶ平鵯尾」と書きあらわしています。『因幡誌』には「丸山」「千本松」と書かれ、険しい山容で簡単には登れず、夏になると蚊が多く、山に入る人はほとんどいなかったとありますが、『無駄安留記』の著者は頂上でゆっくりお酒を飲みながら楽しんでいた様子が伺えます。