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鳥取平野と鳥取砂丘


鳥取砂丘(浜坂砂丘) 成り立ち

新世末期(5〜1万年前)の一時期には海水が増加して、前述の通り現在の陸地は沈降海岸の形態となり、古鳥取湾とも呼ばれる大湾入がつくられました。当時は沖積層の堆積もなかったので平野もできておらず、湾入はかなりの深さがあったのではないかと考えられています。湾奥附近には現在鳥取平野に散在する面影山や大呂山、また砂丘の一ツ山・二ツ山・馬ノ背・伴山、賀露町背後の岩山、さらにスクモ山など湾の外側にある島々により、湾内には小さな島が多く点在していたと考えられます。中国の山地と新しい火山に降り注ぐ雨が洪水となって、侵食を激しくおこない、花崗岩・安山岩の山を削って礫・砂・土を大量に日本海に放出しました。大礫は陸地にとどまり、小轢は湾奥附近に、砂は湾口から湾外に厚く堆積し、泥土は濁水となって遠く沖合に運び去られたことにより、海岸部には泥を含まない美しい砂が堆積しました。砂丘を形成する海底砂はこの頃から存在していたものと考えられています。


鳥取砂丘(浜坂砂丘) 古鳥取湾の形成

新世末期(5〜1万年前)の一時期には海水が増加して、前述の通り現在の陸地は沈降海岸の形態となり、古鳥取湾とも呼ばれる大湾入がつくられました。当時は沖積層の堆積もなかったので平野もできておらず、湾入はかなりの深さがあったのではないかと考えられています。湾奥附近には現在鳥取平野に散在する面影山や大呂山、また砂丘の一ツ山・二ツ山・馬ノ背・伴山、賀露町背後の岩山、さらにスクモ山など湾の外側にある島々により、湾内には小さな島が多く点在していたと考えられます。中国の山地と新しい火山に降り注ぐ雨が洪水となって、侵食を激しくおこない、花崗岩・安山岩の山を削って礫・砂・土を大量に日本海に放出しました。大礫は陸地にとどまり、小轢は湾奥附近に、砂は湾口から湾外に厚く堆積し、泥土は濁水となって遠く沖合に運び去られたことにより、海岸部には泥を含まない美しい砂が堆積しました。砂丘を形成する海底砂はこの頃から存在していたものと考えられています。


鳥取砂丘(浜坂砂丘) 古砂丘の誕生

また、更新世にできた沿岸洲は湾口を完全に塞いではおらず、、海水は内側に入り、内湾と外海はかなり広範につながっていました。外海から打寄せる波は海底を攪乱しながら沿岸洲の汀線附近に砂を打ち上げ、潮流が砂を運び、また打ち上げ、その砂が北からの風によって内側に運ばれます。これが繰り返されて、沿岸洲は次第に幅を広げて高さを増し、小岩島や砂の盛りあがりを這い上がり、埋めつくして砂丘を形成していきました。特に浜坂付近と多鯰ヶ池北東方には、山々が連なっていたので山裾付近で風勢が急に落ちることから、砂の堆積は大きくなり、砂丘は高さを増し、80メートルを越えるに至りました。この時代につくられた古砂丘は現在の砂丘面積の4分の1から5分の1程度のものでしたが、このようにして鳥取砂丘の原地形である古砂丘が誕生し、その後長い年月を経て新しい砂丘がこれに重なって、現在のような大砂丘になりました。
さらに砂丘は古代人の生活舞台であったため、石器や縄文・弥生土器の出土地が多数分布しています。