因幡・国府のうつろう流れ 殿ダム・袋川流域風土記

殿ダム・袋川流域風土記
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袋川流域の祈り 「仏閣」 1 



普含寺

天正4年の開基で、楠城山本六郎左衛門は自ら田地・畑を寄進し、秀山利旭大和尚を開山として迎えて東山山麓に普含寺を開きました。それから約100年後、この地に移転しました。また、大梵鐘が第二次世界大戦に供出のままなくなっていたので、開創四〇〇年を記念して再鋳造し、昭和51年に撞初式を行いました。普含寺の紋は池田家と同じアゲハの蝶であり、鳥取藩主池田家の位牌一基と、分家西館池田家の一基が伝えられています。


清泉寺

臨済宗妙心寺派に属し、開基高木氏の支援を得て再住妙心達源大和尚により寛永12年(1635)頃、清水の地に創立されました。境内にある胴回り3.65mの大公孫樹は樹齢300年以上といわれ、また冬は温かく夏は冷たい泉が湧出して格好の飲料水とされています。地福寺が廃寺になった折に中世の地名や交易を示唆する銅鍔口が一時所蔵されていました。


長通寺

長通律師が開創し元和元年(1615)頃に秀岩と称する留守居僧が再興して曹洞宗長通寺と改めたとも、山中鹿之助の焼打ちにより伽藍を焼失したため岡益の奥地、奥土居に再建して万松山長通寺としたとも伝えられています。住職の牛尾得明師は伝説化されていた広壮な石堂に着目して研究調査をした結果、安徳天皇御陵墓と断定し、安徳天皇御陵参考地としての認可を得たため、これを機に永劫に御陵墓をお守りするため寺を奥土居の地より現在の岡益の地に移転しました。また、前庭には志賀直哉が石堂を訪ねた際に書き残した「妙」の字が岡田美子の讃歌とともに石碑に刻まれています。


無量光寺

国造の伊福吉部第45代宿禰時任という人が後醍醐天皇を隠岐島より遷幸のみぎり因幡路よりこれに供奉して都にのぼり、その後仏道に帰依して祢陀王大夫侍従入道と称し、今の宮下の地に仏堂を建立して岩常寺といい、地方教化の聖地としたと伝えられています。江戸時代に入ると寺門を一新して浄土宗門に帰属し、総本山知恩院の門末として従来の岩常寺の寺名を山号に替え、本尊阿弥陀仏を勧請安置して無量光寺と改称しました。本堂横から裏山を400mほど登ったところに福吉部徳足比売の墓跡があります。


正雲寺

町屋にある曹洞宗の寺で、「慶長三戌年十月二十四日 開基龍峯正雲居士没」とあるので慶長以前に開創せられたものと思われています。以後天徳寺第4世寒雄寿仙大和尚を開山となし、約400年の間天徳寺末寺として法燈が受け継がれてきました。


龍吟寺

『真教寺中興記』によると昔は天台真言の霊場として名高く地皆山黄金寺といわれ、伽藍の跡は現在も残っていますが、正徳元年(1711)本寺鳥取市戎町真教寺の火災により寺院の重要書類が焼失したため、その経緯は詳らかではありません。古い建物は慶応4年に改築され、以来118年の歳月を経て昭和61年に新しい堂宇が建立されました。


国分寺

聖武天皇の御代諸国に国分寺が建立され、因幡の国でも国庁にほど近い国分寺地区一帯に広大な寺域をもつ国分寺の堂塔伽藍がそびえていましたが、戦国の動乱期に国府の野は灰燼となりました。現存する本尊薬師如来像は信心深い住民達の手で護持されて難を免がれ、一草庵の中に安置奉祭されていました。江戸時代の藩主池田公は深く仏法に帰依され、延宝年間(1673~81)に京洛宇治黄檗山の僧活禅和尚が最勝山国分寺として堂宇を再建しました。一二神将を随えた本尊仏の薬師如来坐像は行基の作と伝えられています。


天徳寺

湯所にある曹洞宗の寺で、『因幡誌』によれば岩井郡湯山村にあった湯泉鎮守の薬師堂本尊が移されたとし、『鳥取市史』には天文年間に中原久忠という人の発願で湯山にあった寺を当地に移したと記されています。近世中期には邑美・八上・法美・高草・岩井・知頭の各郡で21ヶ寺の末寺を持ち、譲伝寺末の代表的寺院であったといわれ、また寛政7年(1795)の洪水時には境内に救済所が設けられ、炊き出しなどの災害援助が行われたと伝えられています。